(社8)1ランク上の練習

 東京国際マラソンの出場権をかけてのレースは2月の別大、3月の駿府(ハーフ)と信毎と、これで3回連続失敗したことになる。。どのレースも少なくとも調子はほぼベストに合わせているので、自らのミスによる失敗というわけではないのだが、それでも3回も続くとハーフ1時間10分、フル2時間30分というレベルにだんだん壁を感じるようになる。

 すでにコンディションさえよければ壁を破る力はつけている自信はあったが、より確実なものにするためには、もう一段のレベルアップが必要である。練習内容も見直していかなければならない。年間の前半はトラックを中心にスピードアップし、10月あたりにハーフマラソンを狙ってあわよくばハーフで標準記録突破、それがだめでも11月の大田原マラソンで2時間30分突破という青写真を描く。

 一旦疲労を抜くため、4月、5月は月間300km程度に落として休養に充てる。1年を通して常に追い込んでいたら精神的にも肉体的にも保たない。この間に出場した記録会5000mでは、練習不足ながら15分51秒8。6月も同じく5000mの記録会に出場、この時は5月よりも練習は積んでいたが、あいにく台風が接近して風が強く、15分48秒51に終わるが、一応交通事故後のベスト記録。コンディションが良ければ15分40秒は出そうな感じだった。

 この後夏場の走り込みに入る。すでに前年から暑い時期に走り込むパターンはできつつあったが、この年は8月に720kmとこれまででは考えられない距離の走り込みを行った。もちろんペースは遅いのだが、毎週末に30km以上、最長45kmのLSDを行った。距離だけなら学生時代より多いくらいだ。これだけの練習をして故障をしないというのは、脚筋力がかなり回復してきたことを意味する。特に膝蓋靱帯炎(膝下の痛み)がほとんど気にならないレベルまで良くなった。

 膝の痛みがなくなってきたことで、これまでなるべく避けてきたアップダウンのトレーニングを組み込むようになった。近くの小高い山(標高150mほど)の斜面の農道を使ったクロスカントリーの他、「峠越え」と名付けたLSDを多く行った。30km〜40kmほど離れた目的地を決め、途中に海抜800m前後の峠を越えるようにコース設定し、帰りは電車やバスで帰ってくるという練習である。

 峠越えでは、アップダウンで脚筋力が鍛えられるとともに、山道を走るため夏でもそれほど暑さを感じずに距離を踏める効果がある。特に峠の頂点あたりではとても涼しく、そこでのひとときの休憩はそれまでの辛さを忘れさせる。峠越えで注意したいのは、山道には基本的に自動販売機などはないものとして走らなければならないことだ。山道に入る前に必ず自動販売機などでドリンクを買い、500mlのペットボトルに移してデイパックに入れておく。これで20km位給水施設がなくてもなんとかなる。できればゼリー飲料などもあらかじめ一緒に入れておけば安心だ。

 こうして月間720kmという走行距離をこなし、9月に入って涼しくなるにつれ、距離重視の練習から少しずつ質の高い練習へと移行した。当面の目標として9月27日の長距離記録会(5000m)と10月10日の松島ハーフマラソン(公認レース)への出場を決めた。5000mは練習の一環としての出場だが、松島ハーフの方は、1時間9分台を狙うためのレースに位置づけた。

4度目の挑戦

 9月下旬の5000mの記録会は、スピード練習をほとんどしない中でのレースとなった。気温は低めだが風が強く、好記録は期待できそうもない。1000mを3分09秒と出だしはゆっくり、2000mを6分17秒のイーブンペース。このあたりから集団が減ってきて風の影響を受ける。しかし、3000mを9分28秒、4000mを12分38秒と粘り、ラストはペースアップし、15分40秒91と5年ぶりに社会人自己ベストをマーク。風の影響を考えると好記録。夏場の走り込みで走力が底上げされており、走り込みの重要性を再認識させられる。

 そして10月10日の松島ハーフマラソン。東京国際マラソンの参加標準記録突破を目指してのレース出場は、これが(別大、駿府ハーフ、信毎に次いで)4回目となる。ハーフマラソンで遠征するというのは稀で、それだけ東京国際マラソン出場権獲得への執着心が強かった。10月というのはフルマラソンを走るにはまだ十分準備ができていないし、一度走ったらダメージも大きく、年内に再びマラソンで記録を狙うのは無理であろう。ハーフマラソンなら失敗しても1ヶ月もあれば次のレースを狙える。ハーフの公認レースはそう多くはないので、やむを得ず遠征となったわけだ。

 前日に仙台入りする。大田原マラソンで宇都宮に泊まったことはあるが、仙台となるとさすがに遠い。当日朝は晴れて風もなく穏やかで、気温もそれほど高くない。コンディションとしては上々だった。やや自重気味に3kmを9分59秒で通過。しかしこの後、小刻みなアップダウンに悩まされる。感覚的には平坦なところの方が少なく、登りっぱなしよりかえってリズムが取りにくい。5kmを16分38秒で通過したものの、10kmは33分36秒(ラップ16分58秒)にペースダウン。

 15kmを50分36秒(ラップ17分00秒)で通過した時点でタイムを逆算すると、5km16分のペースまで上げないと1時間10分は切れないとわかり、絶望的になった。それでもペースを上げようと試みるが、競り合う相手もいなくてそれほど上がらない。結局残りはキロ3分20秒前後までペースアップはしたものの、1時間10分49秒。49秒差でまたしても東京国際マラソンの出場権を得られなかった。コースは確かに難しかったが、ハーフで1時間10分を狙うには少し力不足だった。

マラソン前の練習

 1997年11月23日の大田原マラソンで東京国際マラソン出場権獲得に向けた5回目の挑戦をすることになるのだが、それまで試行錯誤していたマラソン前の練習も、この頃になるとほぼ定着してきたので、紹介する。

 秋(11月)にマラソンを走る場合、レース日から逆算していくと最後の1ヶ月は調整、その前の1ヶ月は走り込みと実戦的なトレーニングを兼ねた最も負荷の高いトレーニングになるため、ここで故障しないためには夏場に距離を踏んで脚をつくっておく必要がある。スピードはゆっくりで構わない。そうすると走り込みは7月下旬から8月早々にスタートすることになる。

 夏場は暑いから短時間でさっと終わるというのは、10000mまでのトラック種目ではいいかもしれないが、マラソンの場合はやはりこの時期はしっかり距離を踏んでおくのがいいと思われる。実際の練習では9月、10月の走行距離が540〜550kmであるのに対し、8月は720kmとなっている。しかし、練習の負荷から言えば10月が一番高い。

 10月以降の練習を見ていくと、10月10日の松島ハーフマラソン、その後マラソンを意識した練習にはいるが、松島ハーフの前は一度にあまり長い距離を走っていなかったので、手始めに55kmのLSD。片道コースで終始強い向かい風ながらも3時間54分。これでレース1ヶ月前を迎える。

 疲労も十分に抜けないまま翌週(レース4週間前)の清水日本平マラソン20kmで1時間07分55秒(距離は不正確)。3週間前には32kmのロード走を1時間56分とまずまずのタイムでこなし、2週間前にトラック20000mを1時間09分04秒。1週間前の富士川キウイマラソン15kmでは、マラソンのレースペースに設定し、キロ3分30秒ペースを守って52分29秒。最後の1週間は通勤ランを片道だけ(8km)にしてぐっと練習量を落とす。

 このようなレース前1ヶ月間のポイント練習の置き方は、その後も同様に行っているが、調整ミスはほとんどないので、自分としては完成度の高い調整法と思っている。40km以上走るのはレースの1ヶ月前までで、それ以降に行うと疲労を残すなどのリスクが高い。ただし、あまり期間をあけてしまうと40km走をやった効果がなくなってしまうので、最後の40km走は5〜6週間前に行うことが多い。

 残り1ヶ月のポイント練習はペース走を主体とし、インターバルなどはほとんどやっていない。距離は3週間前に30km、2週間前に20km、1週間前に10kmまたは15kmというように段階的に短くし、それとともにペースも上げていくのだが、レースペース以上には上げない。平日のつなぎの練習でも徐々に練習量を落としていき、最後の1週間で極端に落として超回復を狙う。実業団選手などがよくやる前日の刺激入れ(例えば1000m1本)はしない。ただし、こういった調整法は個人差があるので、万人向けではない。参考にはしてもやはり試行錯誤が必要である。

 食事はレース3日前くらいまでは全く意識せず通常通り。極端なカーボローディングは失敗のリスクが大きいので行わず、やや炭水化物を多めにとる程度。練習を落とすのでちょっと体重は増えるが、せいぜい1〜2kgであり気にしない。前日と当日の朝だけは食事内容に気を配る。繊維質の野菜(芋類、キャベツ、ゴボウなど)や果物(りんごなど)は避けた方がいい。腸内でガスが発生し、腹痛の原因となる。脂分の多いもの、刺身などの生ものもよくない。果物ではバナナは定番であるが、その他ではいちご、キウイなどがおすすめである。みかんは繊維質である袋は食べない方がよい。

 96年頃からゼリー飲料(森永製菓の「エネルギーイン」など)が出回り始め、レース前のエネルギー補給が飛躍的に容易になった。3日前くらいから毎晩1袋ずつ飲むようにしている。また、レース当日も出走直前まで飲んでも大丈夫なので、非常に重宝する。その前といえばカロリーメイトなどが定番であったが、パサパサして緊張して唾液の出にくい状態では食べ辛かったし、空腹感があまり満たされなかった。ゼリー飲料の登場はマラソンランナーにとっては画期的といえる。入れ替わりの激しい食料品であるが、こういった商品はなくならないでほしいものだ。

またも風に阻まれる

 1997年11月23日、大田原マラソン。前述の通り調整もうまくいき、これ以上ないというくらいの仕上がり。過去2回と同じように前日宇都宮に宿泊。そして当日朝、起床して外を眺めてみると、天気は晴、しかし風がやや強く吹いている。不安に思いながら朝食後、東北本線で西那須野駅に向かう。北関東の最大都市宇都宮の市街地を離れ、田園地帯に入ってくると風の強さが更に増してきた。

 西那須野駅に到着し、駅前ロータリーに出ると、一瞬でやる気が失せてしまうほどの強風。落胆しても仕方がないので、送迎バスに乗り込み、競技場に向かう。競技場に近づくにつれ、更に風が強くなっているような気がした。競技場に着き、受付、スペシャルドリンクの受付を済ましたものの、記録を狙えそうにないことは自明だった。この年3月の信毎マラソンにも匹敵する位の強風だった。

 途中で風が弱まってくれることを祈りながらスタート。最初はやや追い風気味の横風。大田原マラソンのコースは1周約20kmの長方形に近い周回コースを2周するので、同じ風向きがずっと続くことはない。ちょうどいいペースの大きな集団が形成され、5kmを17分33秒で通過。次の5kmは追い風となり、ペースアップ。10kmのタイムは34分36秒(17分03秒)と非常にいいペース。十分余裕をもってついている。このまま集団で向かい風を乗り切れば、ひょっとしていけるのではないかという気になってきた。

 再び横からの風となって集団のペースがややダウンし、落ち着いてきた。無理してついてきた選手は次第に脱落し始める。15kmはラップが少し落ちて17分50秒。52分26秒で通過。次の5kmは真っ向からの向かい風となるが、18分30秒位にとどめれば記録は狙えると踏んでいた。交差点を左折すると、向かい風をまともに受け始めた。集団の後方に位置取り、風避けをする。集団は10人弱程度いたので、風避けは十分にできたが、ペースが急激に落ちたのはわかった。しかし、ここで前に出たら97年信毎マラソンの二の舞になるだけだ。

 20kmは1時間11分57秒、この5kmは19分31秒もかかっていた。一瞬距離表示がおかしいのかも、と思ったが、この強風ではそのくらい落ちていても仕方がない。2時間30分は半ばあきらめ状態。20kmのタイムを見て遅いと思ったのか2人が飛び出したが、焦っているだけのように見えたのでここは集団に留まる。向かい風区間が終わったところで集団のペースが上がらないので単独で飛び出した。その後は一人でペースをつくり、25kmは1時間29分27秒(17分30秒)、その次の5kmは追い風に乗って16分53秒にペースアップ。30kmを1時間46分20秒で通過した。

 再び記録への挑戦心が再燃し、30〜35kmの5kmも17分10秒でカバーし、35kmを2時間03分30秒で通過。しかし、また交差点を左折した瞬間、真正面からの向かい風。1周目より強くなっているかのように感じる。今度は単独走なのでまともに風を受け、ペースダウンは避けられない。1周目より速い19分01秒で35〜40kmをカバーしたものの、40kmの通過タイムは2時間22分31秒。すでに体力を消耗しきっており、残りを7分29秒で走るのは不可能だった。

 結局そのままペースは上がらず、2時間30分59秒でゴール。自己記録は更新したものの、30分突破はならなかった。順位は8位だったが、例年なら2時間27分位は出ている順位。自然現象を恨んでも仕方がないのだが、悪コンディションがこれだけ続くと体調は万全だっただけに落胆も大きい。これで東京国際の標準記録突破に向けての5度目の挑戦も達成ならなかった。

疲労でダウン

 大田原マラソンでは残念ながら強風のため2時間30分を切れず、東京国際マラソン出場はかなわなかった。次のマラソンレースは3月の日比野賞中日豊橋マラソンに決めた。1週間ほど軽い練習で疲労を抜いた後、早速走り込みに入った。大田原の疲労はそれほど残っておらず、すぐに平常通りの練習に戻せた。

 ちょうどこの頃、妻が第2子の出産を控えて里帰りし、単身生活となった。単身は楽なようであるが、独身寮と違って食事は自分で作るか外に食べに行かなければならないし、風呂も自分で入れたり掃除もしなければならない。毎日練習しているので洗濯物もすぐたまってしまう。そして週末には妻の実家(磐田郡竜洋町)を往復(車で1時間20分位)、金曜日の夜に竜洋町に向かい、日曜日の深夜に帰ってくるという生活が続いた。

 平日は通勤ランを中心に1日約20kmを走り、週末は妻の実家周辺で30km程度のロード走を順調にこなした。そして12月22日にめでたく第2子(長女)が誕生。月曜日だったので、日曜日に静岡に戻った翌日にとんぼ返りだった。その翌日は祝日なので実家に泊まり、夜にまた静岡に戻るという慌ただしい生活が続いた。その後2日ほど普通通りに通勤ランをしたが、3日目の朝、ひどい倦怠感で起きるのが辛い。すぐに風邪とわかった。

 無事出産でほっとしたのか、それまでたまっていた疲労が急に出てきたようだ。当然通勤ランは中止だが、金曜日だったのでとりあえず出勤して1日だけ無理して仕事をし、早めに帰宅。まだ妻は入院中で長男を実家の両親に預けているので、とりあえず実家に戻った。長男の世話は親に任せて土・日と丸2日間休養し、なんとか出勤できるまで回復した。幸い翌週は2日だけ出勤して年末年始の5日間の休暇に入った。

 結局完全休養したのは3日間だけだったが、この間にかなり体力が落ちてしまった。元日に島田元日マラソン(10km)に出場したが、34分を切るのがやっとの状態。しかしこの後は体力も回復し、40km走を2回行うなど、これまで以上に充実した練習ができた。3週間前にはトラックで30km走を1時間47分20秒で走るなど、調子も持続している。2週間前にちょうど静岡駿府マラソン(公認)ハーフを申し込んでいたので、ポイント練習の一環として出場する。

6度目の正直

 もちろん2週間後の中日豊橋マラソンのための調整の一環としての出場だったが、風邪から回復した後はずっと好調を維持していたし、前年もあと29秒で1時間10分というところまでいっているので、うまくペースに乗れば1時間10分を切るのも不可能ではないと思った。距離表示が5km毎にしかないので、とにかく5kmまでは速めのペースで突っ込み、通過タイムと余裕度を見て記録を狙うか調整に徹するか判断しようと考えてスタートした。

 スタートから200mほど走って左折すると3kmほどの広い直線道路。曇で風も弱くまずまずのコンディション。先頭が見える程度のペースを守り、5kmのチェックポイントでタイムを確認すると、16分20秒だった。前年より20秒以上速いペースだ。ちょっと呼吸は苦しいが無理なペースではなく、全体的な体の動きは悪くない。この時点で記録を狙うことを決心した。4km付近で形成された比較的大きな集団から落ちないよう、気合いを入れる。

 5kmから折り返し点(10km手前)までは交差点でのターンが多く、リズムがとりにくい。集中力を欠くとずるずる後退してしまう。実際、集団は徐々に減っていき、折り返した時には数人に減っていた。10kmの通過は32分50秒と非常にいいペース。まだ16分30秒のペースを維持している。ここから前年並みのペースで行っても十分に1時間10分は切れる。

 折り返し後はごく弱いながらも向かい風だった。コースは頻繁に向きが変わるのでずっと向かい風というわけではないが、前半より走りにくいのは間違いない。しかもほぼ平坦なコースであるが高低差で見ると若干登っている。集団はすでに3人まで減ったが、この集団のペースはそれほど落ちていない。15km地点が近くなるとついていくのがかなり苦しくなってきたが、ここで離れたらおしまいだと言い聞かせ、必死についていく。一人は脱落していき、2人になった。15kmは49分30秒で、前年より44秒速い。この5kmも16分40秒で、風などの条件が悪くなっているにもかかわらず、ペースを保っている。

 15kmを過ぎて併走していた選手が通過タイムを見てペースを上げる。ここでついていけず離れてしまう。離されたと思ったら一気に差がつき、1km余りのうちに50m近く離されてしまった。ここで踏ん張らないとずるずるペースダウンするパターンで、不安が頭をよぎる。残りは4km強というところで安倍川沿いの道から右折し、橋を渡る。ここで弱い向かい風からは開放され、もう一度気を取り直してペースを上げようとするが、広い直線道路でペース感がない。残り5kmからは1km毎に表示があるので時計を見ながらゴールタイムを意識して走る。ペースは落ちたものの、3分25秒前後はキープしているようだ。

 残り2kmで駿府城公園の内堀道路に入り、公園を周回する。残り2kmを6分30秒ほどで走らなければならず、非常に微妙なタイムだ。最悪の場合、1時間10分01秒という悔やんでも悔やみきれないシナリオも考えられ、精神的なプレッシャーは大きくなる。。とにかく今できるのは1秒でも早く先に進むことだ。20kmを1時間6分28秒で通過。やはり単独走になってからペースが落ち、この5kmは16分58秒かかってしまった。前年はこの区間を16分35秒でカバーしているから、相当のペースダウンだ。

 残り1kmを1時間6分48秒で通過したので、残す時間は3分12秒。ラスト1kmを3分12秒というのは相当に厳しいが、ここであきらめたら絶対に後悔すると思い、一か八かロングスパートをかける。難関は公園に入る直前の緩い登り坂。ここを歯を食いしばって頑張り、残りは約500m。もう距離表示がないのでタイムのチェックのしようがないのだが、どうしても時計に目が行ってしまう。ロングスパートですでに全身に乳酸がたまり、とても苦しい。残り100m、ゴールはもう見えている。フォームは滅茶苦茶になりながら最後の直線を走り、ゴールに駆け込んだ。自分の時計では1時間9分58秒を表示している。

 通常、手許のタイムより1秒か2秒遅いことはあるが、3秒遅いことはないだろう、と思いながらも正式タイムが出るまでは不安だった。しかしこの大会はチャンピオンチップ(小型の発信器をシューズにくくりつけ、タイムを自動測定するシステム)を導入しているので、完走証はすぐに交付された。ドキドキしながらタイムを見ると、1時間9分59秒だった。一瞬で疲れが吹き飛ぶ。マラソンより一足先に、ハーフマラソンでついに東京国際マラソンの出場権を獲得できたのだ。1997年2月の別大マラソンから始まった東京国際マラソン出場権をかけたレース出場。ハーフマラソンでの標準記録突破は邪道かもしれないが、6度目にしてようやく念願がかなった。

ついに2時間30分突破

 東京国際マラソンの出場権を獲得したので、2週間後の日比野賞中日豊橋マラソンはプレッシャーを感じることなく走ることができる。ハーフマラソンで力を出し尽くしてしまったので疲労が心配だったが、1週間後に行った15000mのペース走でも余裕をもって51分37秒。疲労するどころかますます調子が上がっていくようだった。スピード、スタミナとも問題なく、故障も全くない。レース前1週間の調整練習でも、ペースを抑えるのに苦労するほどで、これほどの調子でレースを迎えられることは滅多にない。

 当日朝起床すると天気は快晴、しかし強風。絶好調で内心では2時間26分も狙ってやろうという気持ちもあっただけにがっかりした。豊橋に着いても状況は全く同じ、というより静岡より更に風が強い。前回の大田原もものすごい風だったが、今回はそれ以上かもしれない。正直言ってこの風ではまず無理だろうと心の中では思っていた。アップをしようにも風が強くてまともにジョグもできないほどだったから仕方がない。スタート時刻が近づいてもあまり緊張しないし、走る前は作戦も何もなかった。

 スタートは楽に先頭集団につけるゆったりとしたペース。しかし競技場を出ると4人ほどが飛び出し、15人程度の第2集団が形成される。その後ろには大きな第3集団。この集団でいいのかどうか一瞬迷った。しかし大田原での教訓から、風の強いときは同レベルの集団では記録は望めないと思った。実力が上の集団についていって風避けをするしかないと判断した。無理をしてでもついていくしかない。

 5kmまでは市街地のため風の影響はまだ少なく、17分11秒で通過。かなり速いペースで入ったが、後ろの集団とはすでにかなり離れている。後ろの集団では2時間26分どころかおそらく30分も切れない。ちょっと躊躇したが、ここで離れたら風をまともに受けるため、少し無理してついていく。5kmを過ぎると田園地帯でまともに風を受ける。風が舞っているのか、横風だったり真正面から吹いたりしてそのたびペースがアップダウンする。もともと自分の実力より高いレベルの集団なので、横風の時は離れ気味になり、向かい風で風避けをしながら追いつくという展開。10kmは34分53秒でラップは17分42秒に落ちる。

 10kmを過ぎて風が一段と強くなる。真横から吹く風にあおられ、度々反対車線にはみ出る。15kmを52分26秒(17分33秒)で通過した後、風が幾分弱まり、ペースアップ。やや登り勾配のこの区間を17分05秒で走り、20kmは1時間09分31秒。さすがに集団は10人以下に減ってきた。このペースは相当にきつく、乳酸がたまってくるのを感じる。また、ここまで風の影響もあるのか給水を失敗しているので焦ってきた。

 中間点を1時間13分15分で通過して折り返し。折り返せば追い風と思ったがそうでもない。25kmは1時間26分38秒で相変わらずラップは17分07秒と速い。直後の給水ポイントでスペシャルドリンクをまたも取り損ねる。このペースで給水なしではスタミナが続かないため、少し戻って取り直し、5〜6秒のロス。先ほどから風がまた強くなっていたので向かい風をまともに受けてしまう。このままではずるずる離れてしまうと思い、無理をしてすぐに追いつく。

 向かい風で集団のペースが落ちてきた。自分としては集団の後方で風避けさえしていればかえって楽だ。次の5kmは17分49秒と急激にペースダウンし、30kmは1時間44分27秒。この辺から集団からの脱落者が出てきた。逆に自分の方は集団の中では比較的元気で、集団を引っ張る機会も増えた。35kmが近づくと、有力選手が満を持してペースアップ。これにはついていけないが何とかペースを維持する。この5kmは17分16秒でカバー。これで2時間30分はかなり可能性が高くなったが、大田原の時はここから猛烈な向かい風で失速したので油断はできない。

 不安通り、35km過ぎに真正面からの風で急激にペースダウン。しかし間もなく進路を変えて斜め前からの風に変わってほっとする。真正面から吹かれるのとはずいぶん違い、またペースをやや戻すが向かい風には変わりはない。残り3km地点で時計を確認、2時間16分38秒の表示を見て2時間30分を確信したが、逆に2時間26分は絶望となった。40kmは2時間19分32秒でラップは17分49秒に落ちた。集団がばらけて2人での併走になっており、風避けはできなかったのでスタミナをかなり消耗した。40km過ぎて併走していた一人がほんの一瞬ペースアップしたときにはもう対応する余力はなかった。

 競技場に入って残り約400mを最後の力を振り絞り、2時間27分23秒でゴール。後半先頭集団から落ちてきた選手を何人かかわしたので順位も4位にあがっていた。この風の中で27分台の記録は、初めて30分を切れたうれしさはもちろん大きかったが26分を切れなかった無念さも入り交じっていた。しかしこれで東京国際マラソンの標準記録をフルマラソンでも突破し、さらに福岡国際マラソンの標準記録突破も現実味を帯びてきた。

夏の山道ラン

 中日豊橋マラソンの後は意外と疲労が少なく、5週間後の小笠掛川マラソンにも出場した。4月としてはかなり暑く、その影響で今ひとつペースは上がらなかったものの、2時間33分53秒とまずまず走れた。しかし、ここまで十分に休養せずにきたためか、右足のくるぶしに疲労性の痛みが発生。治ったと思ったら今度は右膝を故障し、5月に予定していた記録会(5000m)は取りやめた。

 2時間30分を切るために1年以上挑戦を続けてきて、やっと達成できたこともあり、身体面、精神面ともに休息が必要だった。そこで春から夏にかけては小笠掛川マラソンを最後にレースは出場せず、練習も気分的に楽なLSDを主体とした。気温が上がってくるとともに平地でのLSDより山の方にでかけることが多くなった。

 5月下旬には社内旅行の行き先である熱海から峠を越えて三島へ25kmのLSD。6月には静岡から梅ヶ島温泉(45km、海抜900m)を更に過ぎて安倍峠(海抜1400m)を越えて山梨県側の身延へ74kmの超LSDを敢行。当日は30度を超え、6月とは思えない非常に暑い1日だったが、走りきれたことで自信を深めた。その後も7月には静岡の竜爪山往復の40km走(高低差700m)、8月には静岡〜川根49km走(高低差650m)、井川湖周辺で28km(高低差400m)、静岡〜梅ヶ島温泉の45km走(高低差900m)など坂道ランニングに取り組んだ。

 坂道を走る理由はいろいろあるが、強い脚を作れること、体のバランスがよくなること、心肺機能が強化されること、山に入れば夏でも涼しいことなどが挙げられる。30度を超える酷暑の日でも、700〜800mも登れば蒸し暑さはなく、木陰にはいるとひんやりするくらいだ。もちろんもともと坂道で走るのが比較的好きでなければ、なかなか取り組みにくいかもしれない。また、山を登る以上は降りてこなければいけないわけで、下りで膝を痛めやすいので気をつけなければいけない。

 山に入ると当然ながら店も自動販売機もない。すべて自分で持って走らなければならない。走るコースは往復コースと片道コースがあるが、片道コースの方が好きだ。自宅を出発し、デイパックに着替えを入れて背負っていく。途中のコンビニなどでゼリー飲料などを調達し、荷物に入れる。ドリンクは500mlのペットボトルに入れ、途中にある自動販売機で飲んではつぎ足していく。ボトルを収納できるウエストポーチが便利だ。山に入るとその食料やドリンクだけで20km近い峠を越える。途中に冷たい湧き水が出ていたりするととても助かる。峠を越えて下り始めると、だんだん気温が上がってくるのが嫌だが、目的地に着いて電車やバスで帰ってくる時はちょっとした旅行気分で爽快だ。おみやげを買って帰ったりすることもある。

 こうしてアップダウンの激しいコースで40kmを超えるランニングを難なくこなせる身体ができたこともあり、練習の一環と思って100kmレースに申し込みをしてみた。9月に行われる野辺山100kmマラソンだ。JRの中で最も海抜の高い野辺山駅近くをスタート、前半は足下の悪いトレイル、最大高低差900mという100kmマラソンでも屈指の難コースである。この8月も走行距離680kmと十分な走り込みはできており、100kmという距離には特に不安は感じなかった。

初の100kmマラソン

 9月11日夜、仕事を終えて静岡の自宅を出て車で野辺山に向かう。道路はスムーズで3時間ほどで野辺山に到着。時刻は22時半頃。車外に出るとさすがに気温が低く、体が急速に冷える。早々に寝るつもりだったが、慣れない車中泊のため、なかなか眠れない。3時間ほど浅い眠りの後受付を済ませ、午前5時に慌ただしく出走。

 スタート地点の標高は1350mほどで、前半は25kmが最高点で標高1880mに達する。スタートはゆっくり出たつもりが、5kmの通過は20分38秒。なんだか距離があやしい。10kmから30kmまでは石がごろごろしていてとても走りづらい。足の裏は痛いし、足を取られて自分の脚をなんども蹴ってしまう。それでもなんとかトレイルが終わりに近づいた下り坂で、不覚にもつまづいて転倒。下りで勢いがついたため、なかなか止まらず、ずいぶんと滑り落ちた。右腕と右脚はひどく擦りむき、腰骨を打撲。立ち止まりしばらくしてなんとか痛みは和らいだ。

 しかし、打撲でバランスを崩し、さらに転倒の時にアキレス腱も痛めてしまったようであまりスピードを上げられない。給水所で傷口を洗う。42.195km地点は3時間14分41秒、中間点の50kmは3時間48分47秒の通過だった。一旦標高880mまで下るのでかなり暑さを感じる。前半の登りは、思わぬ転倒はあったが難なく登れたので、後半難所の馬越峠越えがあるものの、8時間は楽に切れそうだ。60kmを過ぎて順位も2位に上げる。

 60kmからは緩やかに登り始める。この頃からちょっと変調を感じていた。どうってことない登りなのだが、どうも動きが鈍くなっている。本格的に登り始める65kmを過ぎてますますおかしくなってきた。体が動かないばかりか、視点が定まらなくなり、視界も狭くなってきた。目を閉じると再び開くのが苦痛だ。69km付近でさすがにやばいと思って立ち止まる。数秒の間(だったと思う)立ったままうとうとする。そして歩いた。しかし、意識ももうろうとしてまっすぐ歩けず千鳥足状態。

 前日3時間しか寝なかったことによる睡魔、エネルギー切れ、高地のための酸素不足に加え、急な登り坂にさしかかったため体が参ってしまったようだ。どんなに坂道のトレーニングをしてもこの状態では全く無意味だった。しばらく歩いてもう一度71kmのエイドを目指してゆっくり走り出す。エイドではちょっと時間をとって果物やビスケット、ゼリーなどしっかり食べる。1位の選手はすぐ前にいるという情報を聞くが、走る気力はまだない。とぼとぼと歩く。

 そのうちに一人抜かれた。元気に登っている。しかし、とても追いかける気にならない。完走すら危うく感じており、一番厳しい時間帯だった。しばらく行くとずっと1位を走っていた選手が道路脇でうずくまっていた。完全にグロッキー状態でもう走れないだろう。75km手前のエイドに向かう途中、昨年の優勝者にも抜かれ3位に落ちる。

 そんな状態で70km〜75kmまでは44分もかかってしまったが、一時の睡魔は峠を越え、ようやく走ろうという気が戻ってきた。とはいえまだガス欠状態で、続けて走ると大腿四頭筋が痙攣を起こす。2〜3分走ったら1分休む、というパターンでなんとかつないでいく。馬越峠最高点(標高約1500m)を過ぎ、77kmのエイドでまた補給する。このあたりから71kmのエイドでの補給が効いてきて、再びエネルギーが充填されてきたようだ。眠気もなくなった。

 下りということもあり、次第に調子が上がってきて、80km地点でほぼ元の状態に戻る。ペースを上げ、85km〜90kmは23分台に戻す。この後緩く長い登りに入るが、大きく離れていたはずの2位の昨年優勝者が前方に見えてきた。その差はぐんぐん縮まり、93〜94km付近でついにとらえる。

 95kmで最後の補給を済ませてゴールに向かう。85kmからは平坦だと思っていたが90km過ぎは結構だらだらと登っている。しかし体力が回復した今となってはさほど苦痛ではなく、90〜95kmも24分44秒でカバー。この後ふくらはぎが痙攣気味でややペースが落ちたが、なんとか押し通し、8時間17分05秒の2位でゴール。

 難コースだったとはいえ、8時間は軽くクリアできると思っていたが、ちょっと見通しが甘かった。フルマラソンと100kmは全く別物だというのがよくわかった。坂道は日頃好んで練習に取り入れており、得意であるつもりだったが、ガス欠の前には無抵抗というのも痛感した。8時間におよぶレースなのだから、前日しっかり睡眠をとらないとひどい目に遭うということも実感した。

腸脛靱帯炎

 100kmレースのダメージは想像以上に大きかった。練習はすぐにできるようになったが、普段40を割っている安静時の心拍数がしばらくの間50台で高止まりしていた。循環器系と血液のダメージが大きいことが伺える。ただ、レース前に十分練習ができていたせいか、2週間ほどで疲労は抜けた。

 しかし、レース中に転倒したときに打撲した右腰骨の痛みがなかなか治らない。筋肉や関節が痛いわけではないので走るのにはそれほど支障がないのだが、2週間ほど経って約2時間のLSDをやったときに右大腿から膝にかけての外側にやや違和感を覚えた。翌日何ともなかったのでそのまましばらく練習を続けていたのだが、さらに2週間後の土曜日にロードで30km、少しスピードを上げて1時間55分ほどで走ったとき、再び右膝外側に違和感を感じた。

 チクチクするような感じで、まだ痛いという感覚ではないのだが、明らかに異常だった。気付いた時点で止めればよかったのだが、また1日休めば治るだろうと過信したのが間違いだった。確かに翌日の日曜日はそれほど痛みはなく、ジョグもできたのだが、翌朝の通勤ランでそれまでにない痛みが走った。ようやく故障と気付いてその日はスピードを極端に落としておそるおそる走って職場まで行き、翌日は休養した。

 次の土曜日はトラックで10000mの記録会だったのだが、アップまでして痛みがなければ出ようということで、競技場へ行った。しばらく休養したせいか、幸いアップしても痛みは出なかった。しかし、膝の異常に加え、100kmマラソンの後は十分な練習ができていなかったため、34分16秒に終わった。そして翌日はまた痛みが出る。

 これは真剣に治療しなければ行けないと思い、ランニング雑誌などを読みあさって自分の症状と突き合わせて導き出した結論は、「腸脛靱帯炎」だった。それがわかったあとは無理はしなかった。1週間後の20kmロードレースも欠場した。その後通勤ランは続けたものの、平常よりかなりペースを落とし、脚の様子を見ながら慎重に走る。

 スロージョグを2週間ほど続けてやっと痛みが引いてきた。20kmのジョグをして翌日痛みがなかったので、トラックで10000mのペース走を34分台で行った。更に翌数日間痛みがないのを確認してようやくほぼ完治した。最初に違和感を感じてから6週間、腸脛靱帯炎と気付いてから3週間がかかった。腸脛靱帯炎は初めての経験だったが、こんなに長引くとは思ってもいなかった。今まで膝の故障でこれほど長く完治しなかったことはなかったため、甘く見すぎていた。

 元々の原因は100kmマラソンでの転倒だったとはいえ、完全に予定が狂ってしまった。故障の間、キロ5分位のスロージョグしかしていなかったため、せっかく夏の走り込みでつくった脚と心肺機能がすっかり衰えてしまった。この時点で東京国際マラソンまであと3ヶ月。もう一度マラソン練習に耐えられる体をゼロからつくりなおし、ポイント練習をこなしていくには時間が足りない。自己記録更新はもちろん、完走すら危うくなってきた。

間に合うか東京国際

 完治して1週間後の富士川キウイマラソン(15km)は起伏の激しいコースだが、前年難なく走れたのが今回は呼吸が非常にきつい。腸脛靱帯炎の間もジョグだけは続けていたとはいえ、キロ5分のジョグではやはり心肺機能が著しく低下してしまう。焦りもあって練習量を一気に増やしたところ、膝の方は大丈夫だったが、身体の方が参ってしまい、風邪で体調を崩してしまった。

 それでもなんとか11月中500km以上を走り、12月13日の袋井クラウンメロンマラソン(非公認フルマラソン)に出場。当然こんなところで調整などしていられない。走り込みの真っ最中でレースに臨んだ。非公認コースではあるが、2時間35分〜40分で余裕をもって走ることを目標とした。

 5km18分台で入るつもりだったが、招待選手として出場した安部友恵選手(旭化成)が結構積極的にトップ集団を引っ張っていたので、ついていってしまった。女子選手に引っ張らせるのも問題だと思って途中から先頭に出たりした。距離表示はあてにならないものの、5kmは17分台後半、10kmは35分台前半で通過。安部選手はこの辺りで後方に下がった。10kmを過ぎるとだいぶ調子が出てきてこのまま20kmまでは数人の先頭集団に入って走った。20kmを過ぎて2人がかなりペースアップして飛び出したが、今回は順位やタイムが目標ではないのでここは無理をしない。3番手集団で淡々と走る。

 30km付近で風が強くて少しペースが落ちたが、5km18分台前半のペースは維持しており、スタミナも最後まで残っていた。2時間32分52秒という予想以上のタイムが出たとおり、スピードはともかくスタミナに関しては、夏場に走り込んだ蓄積は無駄ではなかった。この時点で東京国際マラソンまで残り2ヶ月。あと1ヶ月間を故障や病気なしに乗り切れば何とか間に合うという感触はつかめた。

 レース翌日1日休養しただけで、すぐに走り込みに入った。袋井は調整せずに走ったのでダメージはほとんどなく、順調に練習をこなせるかと思ったが、少し考えは甘かった。1ヶ月経ってから風邪でダウン。日常生活に支障が出るほどひどくはないが、練習は無理で、約1週間の休養を余儀なくさせられた。心拍数が高めに推移しているなどの兆候はあったのだが、やはり焦りがあって無理をしてしまった。レース1ヶ月前のこの時期に練習できないのは痛い。

 5週間前に行う予定だった40km走を1週間スライドして4週間前に敢行。病み上がりだったがもう余裕がなく、賭けに出た。しかし意外にも2時間30分を切って走りきることができ、翌週トラックで行ったペース走30000mも練習では過去最高の1時間46分台でこなし、ようやく東京国際での完走の目処がついた。さらにレース2週間前にはレースペースを想定した20000mペース走。1時間09分20秒で走れ、20kmの関門通過の心配も解消した。病み上がりでポイント練習を強行してきたので、この後練習量をぐっと減らして東京国際マラソンに臨んだ。絶好調とは言えないまでも、登り調子のいい感じだった。

初の東京国際(1)

 1999年2月13日、東京国際マラソンの前日。新幹線で東京に向かい、国立競技場で受付を済ます。東京は静岡から比較的近いので割とゆったりできる。受付でナンバーカードの交付を受け、スペシャルドリンク用のボトルを受け取る。参加賞はスポーツバッグ、ネクタイピン、スプレー2本と湿布2種類(消炎用、冷却用)と充実している。

 一旦新宿に予約したホテルにチェックインし、その後京王プラザホテルで開会式。ネット仲間のokuchan(奥村さん)やイッキさん(宮岡さん)ともここで会う。開会式の後は懇親会に出席。この懇親会は任意参加で出席者もそれほど多くなく、食べ放題、飲み放題。といっても夕食代わりにするようなメニューではないので、終了後新宿駅で食事と買い物を済ませ、ホテルに戻る。スペシャルドリンクの用意などをして22時には就寝。途中何回か目が覚めてしまったが、よく眠れた。  ホテルに戻る前に先ほどのコンビニで買い出し。夜食と翌日の朝食を買い込んだ。すでに日が暮れ、風も強くてとても寒い。前々日あたりから強い寒気が入っているためだ。明日のコンディションが心配になる。部屋に戻ってシャワーを浴びた後、スペシャルドリンクを作る。好きな調合は「レモンの雫」+「エネルギーインゼリー」であるが、「レモンの雫」がなかったので、第2候補の「エネルゲン」にした。人によってはポカリスエットなども薄める人もいるが、私はあまり甘さは気にならないので、特に薄めない。ボトルは化学の実験で蒸留水を入れたりするのに使うようなものだが、先端を切らないとゼリーがつっかえて出てこないので適当なところで切っておく。

 22時頃には床につき、就寝。緊張してなかなか寝付けないときもあるが、今回は寝付きはよかった。途中3回ほど目が覚めてしまったが、すぐにまた眠れ、朝7時半頃までぐっすり眠ることができた。朝食は、おにぎり2個、餅1個、ヨーグルト、バナナ1本、ゼリー飲料、ココアドリンク1本。そして8時半にホテルをチェックアウトし、出発。

 9時過ぎに国立競技場に入り、スペシャルドリンクの受付を済ます。心配された風は前日よりは幾分弱まっており、少し安心した。スタート時刻には更に穏やかになるという予報だった。第一次召集は出発の1時間前なので、アップはその後からで十分だ。開会式には出なかったという大学の先輩でもあり、市民ランナーにはおなじみの角田進さんに10年ぶりくらいに会って少し話をした。角田さんは50歳でもちろん今大会最年長。

 アップ前にもう一度パン2個とバナナ、ゼリー飲料など軽く腹に入れておく。一流選手は4時間前には食事を済ますといい、こんな時間に食べる人はいないだろうが、私は結構走る直前まで食べ物を口にしている。普段朝食後すぐに通勤ランをしているせいか、食べた直後に走ってもあまり胃にもたれないようになっている。

 第1次召集は、主にナンバーカードとユニフォームのチェック。ユニフォームは上下が同じメーカーでなければいけない規定になっているらしい。また、企業で登録している場合を除き、企業名などを表示させてはならない。私は「静岡陸協」で個人登記しているので、当然企業名の入ったユニフォームは不可能。無地のユニフォームでチェックを通過した。手袋や靴下、シューズまではチェックしていなかった。

 召集を終えると、グラウンドに出てアップ開始。トラックの外周をゆっくりと5周ほど周回する。スタンドから声をかけられ、見上げるとたんだいさんたちがいる。PICOさんが長男を連れてわざわざ名古屋から駆けつけていたのにはさすがに驚いた。アップをしていると外国招待選手や国内の有名選手のアップも間近で見られる。国際大会ならではである。アップの後念のためトイレに行っておく。マラソン大会というとトイレの混雑が悩みの種だが、参加者わずか150人程度で選手以外の出入りがシャットアウトされているこの大会では、そんな悩みとは無縁だ。  第2次召集は出発10分前の12時。ナンバーと名前を呼ばれ、コール完了。整列はすべて番号順であるため、いいポジションを取るために寒い中早くスタート地点に並ぶなんてことも全く無用である。直前まで上着を着て時間になったら番号の書かれた紙袋に脱衣を入れておけばよい。あとは所定の場所に戻しておいてくれる。脱衣の指示はスタート5分前だった。  軽く流しをしてスタート地点に並ぶ。前から4列目、内側から3人目というまずまずのポジションだった。靴のひもを再度チェックしておく。今回は記録に対する執着心があまりないためか、意外と緊張感がない。そして12時10分、号砲がなり、いよいよスタートを切った。  第1コーナー付近からスタートし、トラックを2周と300mほど走って競技場から出る。インコースからのスタートだったので、アウトコースから選手がどんどんかぶさってくる。転倒だけはしないように注意した。1kmの通過は3分17秒と自分としては非常に速いのだが、すでにかなり後方に下がっていた。

 競技場を出ると神宮外苑を通って信濃町方面へ抜ける。2km付近で、okuchanが前に出ていくのが見えた。しかしこの時点でペースが速いと感じていたので、ここは自重した。気温が低いのか、体がなかなか暖まらず、ぎくしゃくした走りになっている。この辺りから徐々に集団が形成されてくる。四谷三丁目の交差点を右折し、四谷見附の交差点を左折すると外堀通り。ここから下り坂が始まる。下りといってもブレーキをかけなければならないほど急な下りではなく、集団のスピードも次第に上がっていく。

 角田進さんが上がってきたと同時に大きな集団が形成された。やはり福岡国際マラソン18回連続出場の大ベテランについていけば安心ということか。5kmの通過は16分51秒で過去最高だったが、最後尾でも17分03秒というレースの流れを考えても、このくらいのペースでは行かなければならない。下り終わって水道橋を通過して左折、中央線のガード下をくぐり白山通りへ。この辺りからようやく体も温まってきて走りもスムーズになってきた。集団にも楽についていけるようになり、集団のペースが下がったかのような錯覚すら感じた。

 9km手前からいよいよ日比谷通りに入る。幅の広いゆったりとした道路は快適であると同時に、読売新聞社前からは箱根駅伝の第1区と同じコースということで、気持ちも高揚してくる。お堀を右手に見ながら東京駅を通過、日比谷公園が見えてくると10km。33分39秒で通過した。下りも終わっているのだが、むしろペースは上がっている。しかしここで集団がばらけはじめた。この通過タイムが遅いと考えた選手層がペースを上げはじめたのだ。ここは迷ったが、ただでさえ速く感じていたのですでに余裕がなかったこと、多少ペースが落ちても20kmの関門(70分)は十分クリアできることから、2番目の集団で走った。

 2番目の集団とはいえ、ペースがそれほど落ちているわけではない。安定している。10kmにはスペシャルドリンクをおいていたが、取り損なった、というより見つけられなかったのでゼネラルテーブルの水をとる。手袋が濡れると手が冷えるので、給水の時は必ず手袋を外してコップを取るようにしている。

 12kmを過ぎ、日比谷通りに別れを告げて第一京浜(国道15号線)に入る。ここは斜めに合流しているので、交差点を曲がったという感覚はあまりないので無意識に通過していた。第一京浜にはいるとすぐに田町駅前を通過するのだが、沿道に私の名前で応援する声が聞こえた。田町にある大学に通うまみこさん(インターネットを通じて知り合った)がこの近辺で応援すると言っていたのを思い出し、ようやく第一京浜に入ったのに気がついた。レースへの集中力はかなり高かった。

 15kmは50分40秒で通過。この5kmは若干落ちたとはいえ17分01秒。非常に安定したペースで進んでいる。スタート前は20kmの関門が非常に不安だったが、ここまでくると5km19分のペースでも関門を通過できるとあって、関門の恐怖心は消えた。15kmの給水所ではスペシャルドリンクをしっかりとキャッチした。10kmで分裂した集団はさらに絞られて角田さんもここで脱落したようだ。

 品川駅前16km地点を通過すると間もなく第一京浜では唯一の坂らしい坂、八ツ山橋にさしかかる。まだ前半で余裕もあるのでなんなく登り切った。ここで家族(妻と子供2人)が沿道で応援していた。あらかじめここで応援するというのは決めていたので、走りながら沿道の方を注意していたのだが、簡単に見つけることができた。

 八ツ山橋を越えるとそれまでのビル街という雰囲気から一転する。沿道の応援も、いかにも地元住民という感じだ。集団は散り散りになってしまい、3人で固まって走る。20kmは1時間07分52秒という、今まで経験したことのないハイペース。この5kmは17分12秒と幾分ペースは落ちている。1時間10分の関門は楽々通過したが、このペースでどこまでもつのか、ちょっと不安になる。そして20kmを過ぎると、それまで併走していた2人が急にペースを緩めた。何だよ〜と思いながらも、仕方がないので前を追う。

 ちょうどこの頃、反対車線を10人弱くらいの集団が通過していった。先頭集団が通過したのであと1kmほどで折り返しか、と思った。実はこの集団は先頭集団ではなく、2位集団だったことは、後で知ったことだった。富士通の高橋選手が2位以下を1分30秒も離してトップを独走中だったのだ。この高橋選手には全く気がつかなかった。

 中間点は1時間11分39秒で通過。このままのペースで行くと2時間23分台だが、折り返してみるとやや向かい風を感じる。復路は往路の貯金を吐き出していくことになるので、26分を切るにはとにかく減速を最小限に抑えるしかない。しばらく走ると、22km付近で前方にokuchanを発見。okuchanは大会前から好調そうだったので、ずっと先を行っているかと思っていたので、こんなに早く追いついたのは意外な気がする。一声かけて前に出て、ペースアップを図るも、風の影響か、それとも疲労が出てきたのか、思ったようには上がらない。

 25kmの通過は1時間25分22秒。この5kmは17分30秒かかり、ペースダウンしたのがようやくわかった。やはり折り返してからわずかに向かい風になった影響だろう。しかし前半よりスピードは落ちたものの、ペースは安定して折り返し直後に感じたきつさは和らいでいた。

 26km地点の八ツ山橋には再び妻と子供が沿道で待っていた。この辺りでは比較的余裕があり、家族を見てまた元気になった。八ツ山橋の坂を下るとビル街となり、日陰が多くなる。風もそれほど強くないので寒さは感じない。この辺りから次第に集団が形成されてきたこともあり、ペースは維持できている。

 第一京浜から日比谷通りに入り、30kmを1時間42分59秒で通過。学生の時に30kmのレースで出した1時間42分10秒に迫るハイペースだ。しかしこの5kmは17分37秒かかった。大きな落ち込みではないものの、じわじわと疲労が蓄積してペースが鈍ってきている。次の5kmを17分半、その次の5kmは坂があるから18分とこの後のペースをシミュレーションしてみると、40kmの通過が2時間18分半。ラスト2.195kmを7分半でいけば2時間26分を切れる計算だ。今のペースを維持できればまだまだ狙える。

 30km地点は比較的元気に通過したものの、32kmあたりから集団のうち、okuchanを含む3人にじわじわと水をあけられるようになってきた。ここで離されてはいけないと思うのだが、だいぶ疲労感が漂ってきて、体がいうことをきいてくれない。それでも34kmまでは3〜4秒程度の差を維持していたのだが、34kmでokuchanがスパートしたようだ。ここで行かなければ26分は切れないと考えたようだ。その気持ちは同じなのだが、悔しいことについていく元気はすでに失っていた。

 35kmは2時間0分41秒の通過。この5kmは17分42秒と辛うじてペースは維持している。しかし先ほどのシミュレーションからは12秒遅れ、非常に厳しい状況となった。次の5kmを17分40秒前後で走らなければ26分は切れないのだ。すでに脚に疲労がきて失速は目に見えている。絶望とは言わないまでも、心の中には半分あきらめの気持ちがあった。

 35km過ぎの給水所付近で、なんとSB食品の櫛部選手がゆっくりジョギング程度のスピードで走っているのが見えた。抜いてもいいのかな、と思いつつあっさりと抜き去った。またしてもSB勢は失敗に終わるのか、などと他人事ながら思ってしまった。

 36kmを過ぎ、外堀通りへと入ってきたが、まだ難所の坂にさしかかっていないのに、目に見えてペースダウンしてきた。そして問題の37km付近からの長い坂では完全に失速。こんな状態で残り5kmを17分そこそこで行くのはまず不可能だ。この時点で2時間26分以内は絶望的になった。

 市ヶ谷からのきつい登り坂にさしかかっても、すでに気力が低下して惰性で進んでいる感覚だった。さほど傾斜があるわけではなく、余裕さえあればそんなにきつい坂ではないはずだ。しかし呼吸の苦しさは感じないものの、脚の筋肉の方がもう限界に達している。FWELLの応援団がいて、大きな声援を送ってくれたり、歩道を走ってくれたりするのだが、応援に応えペースアップする気力はもはや残っておらず、軽く手を振るのが精一杯だった。

 四谷見附の交差点を右折すると、ようやく長い坂から平坦路へと変わる。登り坂でのジョギング状態は脱したものの、惰性で走っている状況に変わりはない。40kmを2時間19分27秒で通過。この5kmは18分46秒にまで低下してしまった。残りを6分33秒などというタイムで走れるはずがないから、完全に引導を渡されたことになる。あと狙えるものといえば2時間27分23秒の自己ベスト更新であるが、26分というのが大目標であっただけに、自己ベストに対する執着は全くなかった。

 四谷3丁目の交差点を左折し、国立競技場の照明灯が見えてくると、幾分元気は取り戻したものの、すでに時遅し。神宮外苑を通り、国立競技場内に入ってくると、残り500m。すでに時計は2時間26分になろうとしている。トラック1周分短ければなあ、などと思いつつ場内を周回する。多少ペースアップはするものの、目標を失った状況ではラストスパートをかける気力さえ沸いてこない。

 そしてようやくゴール。係員がバスタオルをかけてくれる。目標は達成できなかったものの、国際マラソンを走りきったという感慨には浸ることができた。タイムは2時間27分34秒。自己ベストには11秒及ばなかった。走り終わった後で、もう少しラストを頑張っておけばなあ、と思っても後の祭りだ。okuchanは2時間25分47秒で、福岡国際マラソンの出場権を見事獲得したようだ。走り終わった後おめでとうと祝福した。

 2時間26分は切れなかったものの、全く未体験のハイペースで前半走りながら、終盤も大崩しなかったこと、秋口走り込み不十分で調整が遅れ気味だったにもかかわらず、ここまで仕上げたことに対して充実感は十分に得られた。また、今回27分台で走れたことで、前年3月に出した27分台のタイムはフロックでないことも証明された。

 ゴールしたのは14時40分頃で、レース後のパーティは19時からだったので、その日の宿泊先である品川に向かい、家族と合流。子供たちは疲れたようでベッドで眠っていた。長男は私が走っているのを見つけられなかったらしく、泣いてしまったそうだ。横になって一休みした後、家族と一緒にパーティ会場である新宿の京王プラザホテルに移動。パーティの前に表彰式があり、そこで南アフリカのゲルト・タイス選手が2時間6分台の大記録をうち立てたり、日本勢では旭化成の三木選手が2時間8分5秒の好記録で走ったことを初めて知った。

 パーティでは小さな子供2人を連れているうえ、予想以上に人が大勢いて混雑していた(特に役員が多い・・・・)ので、パーティを楽しむという雰囲気ではなかったが、子供は結構喜んでいたし、有名な選手や監督・コーチなど身近で見ることができ、有意義な時間を過ごした。もちろん飲み放題、食べ放題である。  パーティ後、記録証と記録集が用意されていたので受け取った。正式タイムは2時間27分34秒で、順位は46位ということだった。ちなみに出場選手は150名、うち完走者は117名だった。初出場にしてはまずまずの順位だった。来年はいよいよシドニー五輪の選考会である。今年にも増して注目される大会となる。出場権はすでに確保しているので、次回はもっと力をつけ、今年を上回るタイム・順位、できれば2時間26分を切りたいものだ。