大学院修士課程修了後の1990年4月、銀行に就職した。配属は静岡県浜松市内の支店だったため、実家から通勤することになった。支店は実家からはバスで35分ほどの所にあるが、大都市と違い通勤ラッシュというようなものはない。6年間離れていたとはいえ住み慣れた所なので、まずは生活に関しては不安はなかった。しかし、仕事を覚え、社会人生活に慣れるのが精一杯で、もう今さら本気でランニングをする気もなかった。
当初の1ヶ月は、新人は定時(通常は17時頃)に終わることになっていた。慣れない仕事で一日中緊張しているため、17時に終われるといっても結構長く感じ、疲れるものだ。まっすぐ帰宅することもあれば、一緒に配属された同期生と飲みに行ったりすることもあり、ごく平凡な新社会人生活を送っていた。
特に仕事が嫌だとか辛いということはなかったのだが、一つだけ悩みの種があった。もともと乗り物酔いをしやすい方で、朝、通勤のバスに乗っていると酔ってしまうのだ。やはり仕事に対する緊張感もあったのだろう。その日によって程度は違うのだが、ひどいときは午前中はずっと胃がむかむかし、昼食がのどを通らないこともあった。
午後になり、帰宅する時間になるとほっとするせいもあってか体調は戻り、帰りのバスは比較的酔うことも少なかった。しかし毎日こんな調子では体がもたないので、当面はバスを途中で降りて歩くことにした。大体職場から2キロほど手前で降りてそこから20分くらいかけて歩いた。市街地に入ると道路渋滞で時間がかかるので、歩いてもそれほど時間的には変わらない。それと、渋滞中に気分が悪くなることが多かったので、バス酔いからはほぼ解放された。また、次第に仕事にも慣れてきて勤務中に気分がすぐれないということはなくなってきた。
仕事には慣れてきたが、相変わらず食欲は回復しない。何かするにも力が出ない。入社間もないのにこんな調子では先が思いやられる。何か運動をしなければ、と思ったが、やはり手っ取り早くジョギングになってしまう。とりあえず週末だけ5〜10キロ程度のジョグから始めた。2年近くのブランクがあるので、急には体が動かない。時々思いついたようにスピード練習的なこともするが、脚が全く思い通りに動かないし、呼吸はすぐに苦しくなるので、長続きしない。
5月にトラックで就職後初めてやった5000m(タイムトライアル)では18分06秒だった。高校に入学したばかりのタイムよりも悪く、情けなく感じる。とはいえ、月間60〜70km程度の練習をわずか1ヶ月やっただけで18分そこそこで走れるのは、学生時代の貯金がものを言っているのだろう。そして、徐々に体が以前の走りを思い出すのか、6月上旬になると5000mは17分32秒に上がっていた。体調の方もだいぶ良くなってきた。
ところが、週1〜2回程度の練習ではどうしても定着せず、一度休むと再び走ろうという気がなかなか沸いてこない。もともと、何かの大会を目指しているわけでもないし、走らなければ、という意識は非常に低い。そうこうしているうちに梅雨入りし、雨の日が多くなったこともあるが、6月はそのタイムトライアルを最後にぱったりと走らなくなってしまった。7月に入っても相変わらず走ることはなかった。
走らなくなってしばらくすると、暑さのせいもあって食欲は更に低下した。昼はいつも外食をしていたのだが、外食のランチを食べるのも辛くなり、弁当をつくってもらうようにした。とても成人男性が足りるとは思えない量だが、空腹感が全然ないのだから仕方がない。体重はある程度まで減ったところで止まった。摂取量は非常に少ないのだが、それと同じくらい運動量が少ないためだ。
入社1年目からこんな調子では先が思いやられるし、本当に体を悪くしてしまうと思い、今度は真剣にやろうと決意した。当面は特に目標はないが、秋に大会に出てみようと考えた。体調の方はずっとすぐれなかったが、一度回復しつつあった脚力の方は、比較的衰えが少なく、ほんの1週間ほど練習しただけで5000mは17分23秒が出た。8月は仕事の帰りが早いこともあって、平日も練習時間はとることができた。
そして8月の終わり、社内の防災訓練があり、訓練の一つに職場から半径6キロ以内に住む者は徒歩で帰宅するというものがあった。静岡は東海大地震が想定されているため、防災訓練はかなり本格的に行われている。自宅はちょうど半径6kmのぎりぎりの所に位置しているので、徒歩帰宅の対象となった。
直線距離6kmとはいえ、実際には7kmほどあり、徒歩では1時間半くらいかかってしまう。それなら走ってしまおうと思いたち(これでは訓練にならないのだが・・・)、その日の帰宅時に走って帰れるよう準備をした。
まず荷物をどうするか、非常に悩んだ。そして、財布や鍵など最低限のものをウエストポーチに入れて、その他の荷物はすべて会社に置いていくことにした。翌日、同じように走ってくれば、会社には鞄やスーツ、靴などはすべて置いてあるというわけだ。ただ、ワイシャツや下着類は前日と同じのを着るわけにもいかないので、あらかじめ替えを前日に持っていけばよい。
次に、朝通勤ランした後の汗の処理がまた問題だ。会社にはシャワーの設備はなく、非常に困ったが、結局は濡れタオルなどでぬぐってしのぐしかなかった。更衣室は暑いので屋上でよく汗をふき取ってからさっと着替えてエアコンの効いた部屋に直行する。これでなんとか汗まみれにはならずに済んだ。こうして偶然のきっかけから、通勤ランが始まることになった。
この頃は、通勤ランといっても片道しか走らなかったし、毎日というわけではなかった。しかし、平日に走る習慣ができたというのは、画期的なことだった。8月に200km走れたこともあるが、ほんの2週間ほど通勤ランをやっただけで昔の勘をかなり取り戻し、5000mのトライアルでは16分38秒が出てしまった。
こうなると久しぶりに記録を縮める楽しみというのが出てきて、次第に練習にも身が入るようになった。そして、ついに社会人初レースの申し込みをした。11月23日に清水市で行われる「清水日本平マラソン」の10kmの部だ。
申し込みをしたら更に意欲が沸いてきた、と言いたいところだが、一度身についた怠け癖はなかなか治らない。9月は160kmほど走れたものの、10月はまた70km台に逆戻り。通勤ランも多くて週2日、全く走らない週もあった。11月も10日過ぎになって、さすがに焦って走り出したが、これでは調整も何もあったものではない。
それでも8月〜9月にかけてそこそこ走った蓄積のおかげで、1週間前にはロード11kmで40分を切って走り、なんとか走れるメドをつけてレースに臨んだ。コースは全般的には平坦だが、途中、日本平に向かう坂道の途中まで50mほどの高低差がある。練習不足なので、前半は自重していった。
後半でペースアップ、と考えていたが、如何せん練習不足は隠せない。ペースを上げるどころか、じりじりとペースダウンしていくのがわかる。それほどレベルの高くない大会だったせいか、10番あたりをキープしていたが、終盤数人に抜かれて結局12位でゴール。タイムは32分29秒ということだったが、そんなに速く走れるはずはなく、明らかに短い(もともと公認コースではない)。おそらく2分ほどは短く、実質的には34分台後半のタイムだったと思われる。それでも練習量を考えれば上出来のタイム・順位だった。
久しぶりにレースに出場して少し無理があったのか、結構疲れてしまい、翌日からしばらく休養。しかし、ちょっと休養するつもりが1週間もすると休むのに慣れてしまい、またしても走らない日が続いた。こうなると、走り出すのも決心が必要だ。しかも、12月に入り、寒くなってきたのでついつい億劫になってしまう。
結局ほとんど走らないまま年を越してしまった。1月になると社内のチームで出る駅伝が2つある。ようやく重い腰を上げて走り始めた。最初の駅伝にはもう間に合わないので捨てて、練習のつもりで走った。6.2kmを21分12秒(キロ3分25秒)。予想していたほどには衰えていなかった。2週間後、静岡県駅伝に出場。あくまで調整練習だが、2週間走っただけでずいぶん調子がよくなっている。片道コースで強い追い風だったためタイムはかなり良いが、8.1kmを27分07秒(キロ3分21秒)。
2月は2日に1回位の割合で比較的コンスタントに練習ができ(といっても月間120km程度だが)、3月は社会人になってから最高の240kmを走った。これだけ練習をすればかなり復調するもので、練習(距離は多少誤差あり)で20kmを1時間09分30秒、30kmを1時間50分41秒で走れるまでになった。通勤ランのペースも当初よりはかなり速くなった。特に20kmの時は、イメージとしては学生時代に近い走りができ、走力の回復とともにモチベーションも高まってきた。
これまでは「走っては止め、走っては止め」の繰り返しだったが、この頃から取組み方が次第に真剣になっていった。そして4月にレース2本を申し込んだ。上旬に「日本平桜マラソン(24km)」、その1週間後にいよいよ4度目のフルマラソン(小笠掛川マラソン)に出場する。
4月に入って最初の日曜日、静岡市で行われた日本平桜マラソン24kmの部に出場した。途中に小高い山の登り下りがあり、高低差は250mの難コース。雨が降り続く中、後半調子を上げて7位、1時間20分36秒でゴール(実測は24kmより短いと思われる)。4度目のフルマラソンに向けて順調な仕上がりだ。
1週間後、小笠掛川マラソン開催。3年前に出場(3時間05分12秒もかけてしまった)しておおまかなコースは把握している。練習量は月間250km弱とそれほど多くないものの、20km走、30km走をいいペースでこなしており、1週間前の日本平桜マラソンも好走したことから、今回はある程度自信を持っていた。あわよくば自己記録(2年前、86年の勝田で出した2時間42分35秒)を、と意気込んでいた。
3年前はスタート直後の急な下りでとばしすぎ、その勢いで前半かなりオーバーペースで入ってしまった。今回はとにかく前半を抑えて走ることを心がけた。だいたい5km19分のペースで前半は進む。これでも当時の走力からすると遅すぎると感じるくらいだった。
レースは淡々と進み、中間点を1時間20分前後で通過。まだ余裕はあるものの、当日は好天で暑さを感じていた。4月中旬ともなると日差しはかなり強く、じわじわとスタミナを奪っていく。27km付近でついに脚にきた。突然スピードががくんと落ちる。こうなるともう建て直しはきかない。
暑かったということももちろんあるが、絶対的にスタミナが不足していた。ちょっと練習をすれば、10kmや20kmはスピードだけで押し通すことができるが、フルマラソンではスタミナ面でのごまかしがきかない。ペースダウン後はずるずると後退し、抜かれる一方。
30km以降は何度もやめようと思ったが、制限時間5時間という市民マラソンのため、こんなに早い時間にリタイヤしても当面回収バスは来そうもない。歩きながらでも先に進んだ方が早く終われると思い、とりあえずゆっくりではあるが走っていく。結局、そのまま何とか歩かずに40kmまで来てしまった。
最後の急な登り坂もなんとか登ってゴール。タイムは2時間54分17秒、総合67位だった。またしてもマラソンに対する甘さを露呈したレースとなったが、後で年代別(25歳以下の部)で3位に入っていたのを知った。記録的には不本意であったが、とりあえず年代別入賞で、翌日の新聞には名前が掲載された。(なお、この時の年代別1位は佐久間健一選手だった。)
91年頃は練習に通勤ランが定着してきたが、片道のみとしていた。朝の通勤時は7km、帰宅時は時間に余裕があるときは12km位まで伸ばしていた。休日はトラック練習やロードで11kmとか16kmというような距離をタイムトライアル的に走ることが多かった。したがって量的にはそれほど多くなく、走行距離にして月間200〜250km程度。マラソンを走るには不十分だったが、トラックやハーフ位までの短いロードではかなり走れるようになってきた。
当時は陸連登録もしておらず、特に目指している大会があるわけでもなかった。そのため目標が希薄であり、モチベーションを維持するにはローカルな大会でも適度に組み込むしかなかった。5月の山中湖ロードレースはハーフマラソンに出場。悪い走りではなかったが、終盤気温が非常に高くなり脱水症状気味。1時間17分そこそこのタイムに終わった。もっとも山中湖は海抜1000mのところにあり、「空気の薄さ」は多少割り引く必要がある。実際、ペースを上げると平地よりかなり呼吸は苦しい。
夏場でも通勤ランは従来通りだが、汗の処理が大変(職場にシャワー施設はない)なのでやらない日も少なくなかった。ただ、日が長いので帰宅後に数キロ〜10キロ程度走ることはできる。休日もLSDなどはほとんど行わない。練習も毎日必ず行っていたわけではなく、週2日は完全に休んでいたので、月間走行距離はたいてい200キロを下回っており、多い月でも250km程度。
練習では5000mを16分33秒、10000mを33分49秒で走れるようになっていた(5000mは記録会などに出れば16分10秒前後では行けたと思う)。秋は11月の清水日本平マラソンに出場し、4位に入賞した。前年(10kmの部12位)よりは相当レベルアップした。タイムは1時間04分36秒ということだが、これは明らかに距離が短い。最大高低差250mという難コースであることを考えると、おそらく1km以上短いと思われ、タイムは全く参考にならない。
日本平マラソンに出たあたりからまたマラソンを走ってみようという気になり、2月頃の出場を考えた。そして「第1回さいたまマラソン」への出場を決めた。それとともに練習量も若干増やし、特に12月は約390kmの走り込みができた。1月に入っても順調で、特に起伏の多いコースで行った40km走では2時間37分半で、自己ベスト(大学2年時の2時間42分35秒)更新は十分可能と思われた。
しかし、急に練習量を増やせば当然ながらその反動が来る。この時は故障だった。膝、アキレス腱と立て続けに痛みが発生した。結局1月は約280kmしか走れなかった。ちょうど休養になって、レース1週間前に出た静岡県駅伝(12km)では39分55秒とスピードは十分すぎるほどついていた。しかしこのけがによる休養期間は調整に入る前で、本来はもう少し距離を踏んでいなければいけない時期だった。幸い故障はレース前には完治していたものの、スタミナに不安を残したままフルマラソンを迎えることになった。
第1回さいたまマラソンは、1994年2月2日に行われた。故障もあって直前まで出るかどうか迷っていたため、近くの宿をとれず、都内のホテルに宿泊した。ところが、前日から大雪。夜にはすでにかなり積もっていた。会場の上尾までは電車で1時間位かかるので、雪で電車がストップしたら交通手段はない。テレビで大雪情報を心配しながら見ていた。
雪も翌朝にはあがり、どうやら電車への影響はなさそうだった。ところが、早朝に思わぬトラブルが発生した。それは「地震」だった。かなり大きく揺れた。慌てて飛び起き、テレビをつける。一番ショックだったのは、電車が地震のためストップしてしまったことだ。とりあえずホテルをチェックアウトして駅へ向かうが、やはり電車は動いておらず、頭を抱えてしまった。
電車しか交通手段がないので、祈るような気持ちで動くのを待った。かなり長い時間待ったが、日曜の早朝、しかも前日大雪ということでホームはそれほど混雑していない。ようやく始発電車が動き出した。しかしスタート時間に間に合うか、微妙な時間だった。アップする時間もないだろうから、車内でできるだけ体を動かして暖める。
上尾の駅に着いたのはスタート30〜40分位前だっただろうか。タクシーに乗れれば会場までそれほど時間はかからないのだが、マラソン出場者の行列でとても乗れそうにない。すぐにバス乗り場に向かった。バスはぎゅうぎゅう詰めだったがなんとか乗れた。バスを降りるともうスタートまで15分位しかない。重い荷物を担ぎながら、雪が積もる中を急いで受付所に向かった。受付はスタート10分前。なんとか受付には間に合った。
しかしゼッケンを安全ピンでとめ着替える間、刻々と時間は経過する。スタート地点に向かうも最後列に着いたところでちょうどスタートの号砲が鳴った。スタートには間に合ったものの、最後尾からの出発。スタート前にトイレにも行けなかったし、間食をする余裕もなかった。スタート後も、参加者が多い上に公園内の狭い道のため、なかなか進まない。スタートラインに到達するまでに2分かかった。
スタートラインを越えてからも混雑で思うように進めない。ようやく自分のペースで走れるようになったのは2kmほど走った後だった。スタートできただけでも満足しなければいけないのに、気持ちは焦っていた。5km18分台後半でいけば十分2時間40分を切れるのに、遅れを取り戻そうという気持ちが先行してしまった。5kmの通過は20分17秒。ロスタイム2分+混雑での走りにくさを考えると、実質的には17分台であきらかにオーバーペース。
5kmを過ぎてペースは落ち着いたものの、相変わらず速いペース。20kmまでの5kmごとのラップは、18分00秒、18分16秒、18分18秒。前日の雪で気温は低めで、風はほとんど無風という恵まれたコンディションで、調子が上がってきた。中間点の通過は1時間19分あたりで、遅れは取り戻した。その後、18分23秒、18分08秒となおも快調なペースで30kmを1時間51分22秒で通過。
この時点でもまだ疲労は感じない。ひょっとしたら2時間35分位が出てしまうのではないか、悪くても2時間40分は切れる、と思い始めていた。次の5kmも18分07秒で走り、いよいよ残り7.195km。ここを30分半で走れば2時間40分を切れる。この辺からちょっと大腿部に疲労を感じ始めていたが、36kmまでは問題なく走れた。
ところがこの後、ガクンとペースダウン。ついにスタミナ切れが襲ってきた。ここまで非常に安定したペースで走っていたのに、あまりにも脆く崩れた。突然ジョギングペースに失速、陸橋などの小さな登りでは歩いてしまった。結局35km〜40kmは24分23秒にまで落ち込み、2時間40分はおろか、自己記録(当時2時間42分35秒)も絶望的になった。
最後の2.195kmも12分55秒という信じられない遅さで、結局2時間46分47秒が正式記録となった。前日の雪や当日朝の地震などトラブルの影響は大きく、記録的には満足できるものではなかった。スタートの遅れを取り戻そうと焦ってオーバーペースになってしまったのが原因だが、スタート前に時間的余裕があり、しっかりエネルギー充填していれば最後まで持ちこたえたかもしれなかった。調子はよかっただけに残念な結果だった。
5度目のマラソンでもやはり終盤で急速にペースダウンした。残り6kmの地点まで持ちこたえたのは最長記録だが、自分はもともとマラソンに不向きなのだと感じていた。と同時に、トラックのスピードをもっとつけたい、正確に言えば学生時代の頃に戻したいという気持ちが強くなっていった。
さいたまマラソンの後2週間ほど休養した後、練習を再開。疲労はそれほど残っていなかった。これまでほとんどやっていなかったインターバルトレーニングに加え、10km程度をかなり速いペースでのペース走を中心とした練習を多くした。平日の通勤ランはつなぎの練習でメリハリをつけた。
さいたまマラソンの1ヶ月後の駿府マラソン公認10kmでは33分22秒。まだ完全に疲労は抜けていなかったが、まずまずのタイム。3月下旬には、練習での5000mタイムトライアルで16分09秒を記録。社会人になってからの最高記録をマークした。レースなら15分台を出せる感触を得た。また、15000mのトライアルでは50分55秒(17分06秒−17分02秒−16分47秒)の好記録。3000mでも9分24秒と、たいぶスピードが蘇ってきた。
インターバルは1000×10(つなぎ400jog)が3分07秒〜10秒程度、400×10(つなぎ200jog)が68秒〜70秒程度。この他に練習コースとして航空自衛隊飛行場(浜松基地)を周回する11kmのロード走が主な練習。11kmは好調時は37分前半で走っていた。量的には月間200km前後と多くはないが、質の高い練習ができていた。また、スポーツジムで水泳やエアロバイク、ウエイトトレーニングなど、いろいろな運動を取り入れていたのもこの頃の特徴だった。
レースは4月上旬の日本平桜マラソン24kmの部で1時間21分18秒の9位。前年より42秒悪く、順位も2つ落とした。24kmはこの当時の練習内容ではやや長すぎたようだ。何しろ練習での1日の最長距離が20km、通しで走ったのでは15kmが最長だったからだ。2週間後の4月19日、小笠掛川マラソンにエントリーしてあったので、この状態では最後までまともに走れないとは思いながらも、棄権はもったいないので出場することにした。
当日は雨だった。例年この時期にはすでに気温がかなり高くなり、日射しが非常に強い。マラソンには不向きなのだが、この日は幸運にも雨のおかげで気温も高くない。記録は狙いやすいのだが、残念ながらそのための練習はしてきていない。はやる気持ちを抑え、ペースが上がらないことだけに気を配った。
最初の5kmは18分35秒。さいたまマラソンよりは抑えたものの、2時間36分台のペース。まだ速すぎる。ペースを幾分落として次の5kmは18分55秒、このあたりで女子のトップ選手の集団に入る。ちょうどいいペースなので、この集団で走ることにした。その次の5kmは19分34秒。ちょっと遅めのペースだが、集団を形成しているので、下手に飛び出すよりも前半は自重したほうがよいと判断した。
20kmは1時間15分58秒で、この5kmを18分54秒。19分前後のペースで安定してきた。中間点は1時間20分を少し回ったところで、ペース配分は悪くない。途中土砂降りになって走りづらい時もあったが、気温が上がらないというのはありがたい。女子のトップの集団はペースが落ちていたので、この辺で抜け出す。その後5km19分20秒、19分11秒というペースで進み、30kmを1時間54分29秒で通過。2時間40分を切るのはここからペースアップしないと難しいが、自己記録(2時間42分35秒)は十分に狙える。
しかし、35kmを目前にして動きが重くなってきた。脚にきている。30〜35kmはなんとか19分42秒でカバーしたものの、この後キロ4分以内のペースは維持できなくなった。37km付近から落ち込みが更に激しくなり、4分半〜4分45秒のペースにまで失速。40kmまでの5kmは21分57秒かかった。すでに2時間36分08秒となり、自己ベストの望みは絶たれた。ただ、これまでのマラソンに比べればずっと落ち込みは少ない。前半抑えたのが功を奏した格好だ。
40kmを過ぎると小笠掛川マラソン名物の約1kmにわたる急な上り坂がある。歩きはしなかったものの、ここで更にペースダウンし、2時間45分以内も不可能になった。坂を上りきると残り1km。ここで最後の一踏ん張りし、2時間46分36秒でゴール。辛うじてさいたまマラソンのタイムは11秒上回った。
さいたまではスタートロスが2分あったので、実質的には今回の方が悪いのだが、今回は後半1時間26分台でカバーし、これまでのマラソンでは落ち込みを最小限にくい止めることができたのは収穫だったと言える。この時は意識はトラックに向いており、マラソン練習は十分にしていなかったので、しっかり走り込めば2時間40分は狙えるはずである。
小笠掛川マラソンでロードシーズンは終わりとし、再びトラックに注力する。練習は平日は通勤ラン片道(7km)が主体。帰りはかなり速いペースで走る。平均でもキロ4分以内、中盤から後半にかけては3分30秒近くまで上がる。休日は11kmのロード走(ペースはキロ3分30秒前後)が多く、その他トラックでのスピード練習など。LSDなどはほとんどやっていなかった。
この年初めてのトラックレースは、5月下旬の静岡県長距離記録会。この時は調子は悪くなかったのだが、ペース配分を間違えた。1000m3分01秒、2000m6分07秒はいくらなんでも速すぎた。2000m過ぎてペースダウンし、次の1000mは3分18秒、その次は3分26秒かかってしまった。ラスト1000は3分09秒でカバーしたものの、16分00秒7。わずかの差で15分台に届かなかった。
1週間後、山中湖ロードレース1周の部(14.3km)に出場。5km16分37秒、10km34分00秒、14.3km48分33秒だった。標高1000mの空気の薄さ(スピードを上げるとかなり影響を感じる)を考えるとまずまずのタイム。
6月はレースがなかったが、平日の通勤ランは継続して行った。そして7月中旬に再び長距離記録会5000mに出場。梅雨明け間近の蒸し暑い時期だが、スタート時間も午後7時20分ということで暑さはそれほど感じない。前回のオーバーペースを教訓に、出だしはスローを心がけた。
1000mは3分07秒の通過。ちょっと遅すぎるような気もするが、余裕があるペースでこのペースなら維持できそうだ。2000mは6分17秒で3分10秒ペース。まだスピードはそれほど落ちていない。2000mを過ぎて先頭集団に加わってきた。先頭集団はもっとハイペースで入ったので、ペースが落ちている。当然この集団にいたら自分のペースも落ちることになるが、まだ中盤ということで焦って前に出ないようにした。
3000mは9分31秒だったので、この1000mは3分14秒とペースダウン。このまま先頭のペースに合わせてずるずるとスピードが落ちると15分台が出ないと判断し、3000m過ぎてから先頭に出た。余裕はあったものの、やはり先頭でペースを作るのはきつい。それでも若干ペースアップし、4000mは12分43秒で通過。3分12秒ペースに戻す。
この時点で15分台は確実だった。あとはどこまで記録を短縮できるかだ。力を振り絞り更にペースアップを試みる。先頭はすでに2人に絞られ、高校生選手を従えてスピードを上げていく。ラスト200mで高校生に先にスパートされ、スパイクを履いていなかったせいか追随できなかったのが惜しまれるが、ラスト1000mを3分02秒でカバーし、15分45秒2でゴール。15分台は87年10月以来だから5年ぶりのことだった。途中のブランクや、社会人となり練習が十分できないことを考えると、非常に満足できる記録だった。15分30秒以内も視界に入ってきた。
その後、9月に国立競技場で行われた早慶対校陸上のオープン5000mに出場。早大勢の速いペースに惑わされ、2000mを6分07秒とオーバーペースで入ってしまった。2000m過ぎから急速にペースダウンしたものの、15分52秒で何とか15分台を確保。2レース連続で15分台を記録した。
10月にはトラックで行ったタイムトライアルでも33分08秒を出し、5km〜10kmの距離にはかなり自信をつけていた。そのかわりマラソンを走ろうという意識はだいぶ低下し、練習で長い距離を走ることも少なくなった。
12月には袋井クラウンメロンマラソンに出場したが、距離に対しては全く自信がなかった。前半抑えていったが、非公認コースのためラップタイムがまったく当てにならない。スピードには相当自信をつけていたので、たぶんマラソンを走るにはオーバーペースだったのだろう。27kmあたりからペースが落ちてきて35kmからは完全にジョギングペース。タイムは2時間43分07秒で自己記録(2時間42分35秒)にあと35秒と迫るタイムだったのだが、公認コースではないので、このタイムが良かったのか悪かったのかは結局疑問が残る。
ところでこのころ、人生の転機といえる出来事が巡ってきた。それまでまめに女性とつきあうのが苦手な性格から、女性との交際は遠慮がちだった(つきあってくれる人がいなかったと言った方が正確か?)のだが、ついに結婚を前提に交際を始めるようになった。間もなく27歳になろうかという時期だった。
こうなると休日も走ってばかりいられなくなるし、なんだかそわそわして、とても集中して走るということはできなくなってきた。1月の静岡県駅伝12kmでは完全な練習不足で43分台という不本意な成績。ちょっと情けなさを感じて3月初旬の静岡駿府マラソン(公認ハーフ)までは少し身を入れて練習した。少し継続して練習するとスピードはすぐに戻った。
レースでも5km16分15秒、10km32分45秒と快調な滑り出しだった。この程度のスピードは全然苦にならなかった。ところが15kmの手前から急に脚の動きが緩慢になり、15kmは50分00秒(この5km17分15秒)とペースが落ちてきた。その後ペースはじりじりと落ち、19km辺りで完全にノックアウト状態。残り2kmはジョギングペースで、結局1時間13分28秒に終わった。
結婚の話が具体化するにつれ、式場の予約だとか衣装を決めたり、結納の準備などで忙しくなってくる。駿府マラソン後はほとんど走ることもなく、4月の日本平桜マラソンでは24kmを前年より12分も遅い1時間33分かかってしまった。この時点で走るのは中断し、結婚の準備に専念しようと思った。式は7ヶ月後の11月に決まった。
結婚までの間、休日も一人の時間が少なくなり、目標を見失ったこともあって走るのは中断していた。時々一緒にスポーツクラブへ行って、トレッドミルで走ったりする程度だった。平日も通勤ランくらいはできたのだが、一旦モチベーションが低下してしまうとなかなかやる気が起こらない。だが、結婚式が終わって落ち着いたらまた走ろうとは思っていた。
結婚式は1993年11月6日。無事に終わって翌日から新婚旅行に出発した。旅行先はニュージーランド。ニュージーランドは瀬古選手なども合宿地としてよく利用していたところで、走るにはとても環境がよいところだ。是非走ってみたかった。
最初に行ったクライストチャーチは、小川の土手や大きな公園など走る場所には全く困らなかった。日中ツアーで観光し、ホテルに着いてから夕方1時間ほどジョギングするととても気持ちがよい。次に行ったクイーンズタウンというところは、かなり南の方にあり、ちょっと寒かった(南半球なので当然ながら南の方が寒い)。フィヨルド状の細長い大きな湖のほとりにハイキングコースのようなものがあり、やはり1時間ほどゆっくりとジョギング。観光の疲れをとるにはちょうどよい。
最後の目的地のオークランドは北の端にあり、初夏のようでとても暖かかった。ツアーで行ったところで小高い山があり、とても景色が良かったので、夜行ったら夜景がきれいだろうなと思い、走って行ってみるつもりだった。この時、とんだ失敗をしてしまった。一応道順は頭に入れて走ったつもりだったが、途中で道に迷って戻れなくなってしまったのだ。道を尋ねようにも乏しい語学力ではとても理解しようがなく、見知らぬ地をさまよいながら途方に暮れた。
そこで遠回りになるがとにかく一旦オークランドの市街地に出ることにした。ツアーで市街地から郊外のホテルへバスで向かったかすかな記憶を頼りにとにかく走った。すっかり日も暮れ、不安は募る。見覚えのある風景も目にするようになり、かなり近くまで来ているというのはわかったが、ホテルがどこにあるのかは見当がつかない。当てずっぽうで走っていると、なんと幸運にもホテルが現れたのだ。安堵で思わず涙が出そうだった。1時間で戻る予定だったのに、かれこれ3時間近くが経過していた。部屋に戻ると当然ながら妻が泣きそうな顔で待っていた。結婚早々、思わぬ心配をかけてしまった。
結婚してやはり大きく変わるのは環境である。結婚したとはいえ、血のつながらないもの同士が一緒に住むわけだから、今までのように何の気兼ねもなしに、というわけにはなかなかいかない。住居も変わって通勤方法や時間も変われば生活のリズムも当然変わる。妻は専業主婦で家事をほとんど任せることができたので、時間は十分にとれるのだが、慣れない生活ということもあり、なかなかランニングを再開しようという気が沸いてこなかった。
約1ヶ月がたった12月初旬、ちょうど福岡国際マラソンが行われていて、妻もマラソンを見るのは好きなので2人でテレビ中継を見ていた。レース中、トップ集団の有力選手が紹介される中、一人の市民ランナーがクローズアップされた。その人は角田進さんだった。31歳で福岡国際マラソンに初出場し、以後15年連続出場を果たしたということで紹介されたのだ。今でこそランニング関連誌や講演会などでおなじみの存在であるが、当時はまだ単なる一市民ランナーだった頃である。
実は角田氏は慶應大学競走部の先輩にあたる。マラソンは2時間21分台のベスト記録を持つ。私が学生だったころも、休日にはよくグラウンドに来られ、一緒に練習もしていた間柄である。もちろん連続出場をしていたことは知っていたし、福岡に出ることの大変さも十分にわかっていたが、こうして全国ネットのテレビ中継で大々的に紹介されるのを見て、あらためて角田先輩の市民ランナーとしての偉大さを認識した。
当時まだ28歳になったばかりで、市民ランナーとしては、マラソンに取り組むのは年齢的にはまだ遅くはない。今までなかなか踏ん切りがつかなかったのだが、これをきっかけに早速ランニング再開を決意した。ブランクは約9ヶ月。この間ほとんど走っていなかっただけに、体は相当になまっていた。
ある程度強制的に練習をするには通勤ランが一番であり、まずは通勤ランから始めた。新居から勤務先までは約10kmで、実家から通っていた頃より3kmほど長い。最初は非常に長く感じたが、慣れるのにはそう時間はかからなかった。次第に朝は42〜44分、夜は38〜40分と、通勤ランとしてはかなり速いペースで走れるようになっていった。また、これまではやっていなかった往復通勤ラン(朝・晩とも走る)もたまに行うようになった。往復すると20kmだから、これだけでもかなりいい練習になる。
年が明けた1994年1月2〜3日、母校が箱根駅伝に出場した。第70回記念大会ということで出場枠が5校多かったため出場できたのだが、加熱する駅伝人気を考えると予選会11位以内というのもかなり高いハードルである。これを通過し、本戦に出場できたのも、母校のコーチも努めていた角田氏の力によるところが大きい。このレースは、2日目に小田原中継所まで足を運び、電車を乗り継いで大手町のゴールまで応援をし、かなりの刺激を受けた。これにより練習にも更に身が入るようになった。
こうして急速に走力は回復し、1月下旬の静岡県駅伝では、12kmを40分31秒(10km換算で33分46秒)で走り、結婚前後のブランク以前の記録(2年前に39分55秒で走っていた)に近づいてきた。休日の練習も、20km以上の距離走を今までより頻繁に行うようにし、マラソンを走る下地をつくっていった。冬のマラソンには間に合わないものの、秋頃にはフルマラソンに出場して2時間40分を切り、まずは別大マラソンの出場権を獲得する、というような構想を描いていた。そんな計画がある事件で一瞬にして崩れ去るとは思ってもみなかった。
1994年2月10日午後7時20分頃、いつも通りランニングで帰宅するため、勤務先を出る。この時期、暖かい浜松とはいえ冷え込みが厳しいが、よほど寒い日でなければ上は長袖Tシャツに手袋、下はハーフタイプのタイツという格好で走る。体が温まってきたら巡航速度キロ3分40秒前後と速いスピードで走っていた。静岡県駅伝から2週間が経ち、調子は更に上がっていたうえ、翌日から3連休ということもあり、足取りは軽い。いつもよりペースも快調だった。
ランニングコースは、国道1号線とほぼ並行して走っている、いわゆる「旧国(旧国道1号線の意味)」と呼ばれる道路を走る。家までは約10kmだが、ちょうど中間点あたりに差し掛かった時のことである。歩道の関係で道路の右側を走っていたのだが、右斜め前方の路地から1台の自動車がこの旧国に合流しようと走ってきたのが見えた。優先道路は当然旧国側だが、その車が一時停止せずに突っ込んできた。厳密には、一旦徐行気味に速度を緩めたが、旧国への合流に気を取られ、横断歩道にさしかかっていた私に気がつかなかったのだ。
手を上げて制止するも運転手が気がついていない、と感づいてあわててストップ、方向転換しようとしたが、自動車は加速中で目の前に迫っている。間に合わないと思った次の瞬間、自動車の左サイドが右下腿に接触して通り去ってしまった。それほど痛みは感じなかったが、転倒し路上に横たわった。とりあえず歩道に移動しようと思い動こうとした時、異常に気がついた。右脚が動かないのだ。
仕方なく両手で右脚を持ち上げようとした瞬間、血の気が引いた。足首より先がブラブラしており、激痛が走った。「折れてる!」。ところが意外なほど冷静だった。交通量の多い幹線道路だ。這ってでも歩道に行かなければ、と思うがわずかでも動くたびに激痛が走る。それに歩道にたどり着いたとしても、救急車すら呼べない。加害者の車は私をはねていったきりだ。どんどん不安が募る。
そこへ別の車の運転手が事故に気づいて近寄ってきてくれた。とにかく道路から出なければ、と補助してくれた。痛みを必死にこらえてとにかく歩道へと移動し、救急車を呼んでくれた。間もなく加害者の車も引き返してきた。とりあえずひき逃げされなかったのでほっとした。救急車が来るまでの時間はとても長く感じた。時間にしたら10分あるかないかだろうが、本当に待ち遠しかった。
救急隊員が応急処置で下腿を固定し、救急車に担ぎ込み、すぐに発信。自動車電話で救急病院と連絡を取る。その連絡の中で複雑骨折と言うのが聞こえ、愕然とした。それまで辛うじて冷静さを保っていたが、その一言は相当に衝撃的だった。「もう二度と走ることはできない」、そう思うと急に泣けてきた。自宅の連絡先を尋ねられ、救急隊員が妻に電話をし、収容先を告げた。落ち着きを取り戻すと、急に寒気がし、ガタガタ震え始めた。ランニング中のため真冬にしては相当に薄着だったから当然だ。それに脚を固定したとはいえ、車が揺れる度に激痛が走る。病院に着くまでの時間が、また長く感じた。そして聖隷浜松病院に到着した。
病院に到着し、すぐに手術の準備に入った。手術といっても下腿の内部を洗浄するための簡単なものである。小学生の頃に鎖骨を骨折したことはあるが、その時は石膏で固めただけだったので、手術をするのは初めての経験だった。救急車の中では複雑骨折と言っていたが、実際には開放骨折だった。折れた骨の一部が外部に露出してしまう骨折を言う。そのために洗浄が必要なのだという。複雑骨折ではなかったとはいえ、頸骨および腓骨が完全に破断しており、かなりの重傷であることには変わりはない。神経が切れていなかったのは不幸中の幸いだった。
手術は終了、麻酔が効いているので痛みは全く感じない。しかし脚の感覚がなく、自分の意志で足の指さえも動かせないのは非常に違和感がある。手術では洗浄の他、かかとに穴を開けて牽引用のピアノ線を通してあった。手術室を出ると母親が待っていた。妻から連絡を受けて駆けつけたらしい。実家から病院は結構近いところにあったので先に着いたようだ。母親の顔を見た瞬間、安堵感と骨折した悔しさがこみ上げてきて思わず泣き出してしまった。
間もなく妻が義母に連れられて到着。救急隊員からは私が車にはねられて病院に運ばれたとだけ言われ、怪我の程度なとは全く知らされていなかったので、義母に電話をしたが気が動転してしまい、とても一人で来られる状況ではなかったらしい。今度は少し時間が経って落ち着きを取り戻していたので、強がって妻たちには涙は見せなかった。
すでに夜10時を回っていたので家族はここで帰った。病室の準備もできていなかったので一旦病室でない部屋にベッドを持ち込み、一晩過ごすことになった。興奮状態に加え、麻酔が残った状態で何となく気分が悪く、一晩中ほとんど眠れなかった。翌朝、病室に移された。次第に麻酔が抜けてくると、左足は徐々に動くようになったが、右脚はピアノ線で牽引されており、寝返りは打てず、天井しか見えない。
体を起こすこともできず、食事の時だけベッドを起こしてもらうが30度位しか起こせないので食べるのにも苦労する。次の手術(接合手術)は1週間後といわれたが、それまでずっとこの体勢でいなければならないと思うとうんざりした。妻に着替えや入院中の洗面用具など必需品を持ってきてもらい、本格的に入院生活がスタートした。まだ2日目というのにずいぶん長くいるような気がする。
1日の生活は、3回の食事と点滴、検温を繰り返すのみ。時々診察があるが、あとはベッドで仰向けになっているしかない。足は牽引されたままで体勢を変えることもできない。排泄時は看護婦を呼んでベッドで行わなければならない。全く運動ができない状態で、体力が日に日に落ちていくのを自覚できた。はじめのうちは差し入れの食べ物など口にしていたが、次第に食欲がなくなり、3回の食事(量はそれほど多くない)を残さず食べるのが精一杯になってしまった。
一番困ったのが、夜眠れないことだった。運動していないので疲れないということもあるが、片足を上げたままずっと同じ体勢でいなければならないのが非常に苦痛だった。どうしても眠れないため、睡眠薬をもらったりした。これも1週間後の接合手術までの我慢と思っていたが、出血が止まらず、延び延びになっていた。差し入れの本や雑誌を読むにしても、体を起こせないので長時間は読めない。テレビを見て過ごすことが多かった。内臓疾患などではなく精神的には元気なので、お見舞いに来てくれるのが一番の楽しみだった。
手術は予定よりだいぶ遅れたが、入院から12日後、2月22日に行われた。出血が完全に止まっていなかったが、これ以上おくと折れた骨が変にくっついてしまうとのことで、手術に踏み切った。前夜から食事を絶ち、脚の毛を剃って手術に備える。そしてベッドに寝たまま手術室へと向かった。接合手術とは言っても、実際には折れた骨を接着するわけではなく、膝から足首にかけてステンレスのパイプを入れ、そのパイプで膝と足首を支持し、骨が接合するまでの間、骨の代わりを果たすというものだ。理屈の上では手術が終われば歩行は可能らしい。
手術といっても、なにやらいろいろな工具のようなものを用意して、まるで自動車の修理のようだった。麻酔が効いてくると次第に意識が薄くなってきて、いつの間にか手術は終わっていた。意外とあっけないという感じだった。成功とか失敗とか、という大手術ではないので、終わった後も特に感慨はなかった。しかし、部屋に戻るとさっきまでついていた踵のピアノ線がないのに気づくと、何となくうれしくなる。まだ麻酔が効いているので全く足は動かせないが、おぼろげに光が見えてきたようで暗い気持ちもだいぶ晴れてきた。
手術が終わり、これでベッドから出られると思いきや、出血が止まるまでは足を下げてはいけないということで、相変わらず足を持ち上げて仰向けに寝たままだった。出血は予想以上に長引いた。足の牽引はなくなったものの、右脚を少し持ち上げた状態のまま、寝ていなければならないので、まだ寝返りは打てない。ただベッドを起こすときの角度が、今までは30度位だったのが60度位まで起こせるようになり、食事も楽にできるようになった。とは言っても食欲は減退する一方で、体力は相当に低下していた。
手術から約1週間経過し、ようやく出血が止まってきて、いよいよベッドから出られることになった。といっても最初は車椅子だった。もちろん車椅子に乗るのは初めての経験である。ベッドから出て左足で立とうとしたが、よろけてしまい、立てなかった。3週間近く寝たきりだったため、脚力が著しく低下していたためだ。ベッドの手すりにつかまりながらなんとか車椅子に乗る。最初は体を起こしているだけで数十分程度で疲れてしまった。しかし病室から出られただけでとても開放された気分になった。車椅子で行ける範囲で広い館内を隅から隅まで移動した。
車椅子の生活は5〜6日続いた。ようやく片足で立つのにも慣れ、3月7日(入院後25日目)、いよいよ松葉杖での歩行練習に入った。車椅子と違い、松葉杖は練習しないとうまく歩けない。特に階段の上り下りは難しい。毎日1回、リハビリセンターの方で指導を受け、終わった後は病棟の階段などで自主練習。リハビリセンターにあるトレーニングルームは自由に使えるので、ウエイトトレーニングなどもやり、久しぶりに運動することができた。しかし、ずっと立っていると脚がむくんでくるので1日3時間程度が限度。
体を動かすようになってから、ようやく夜もぐっすりと眠れるようになった。売店に買い物に行ったり、一人でトイレに行ったり、脚をビニールで保護しての入浴許可もおりたりして、だいぶ健常者に近い生活ができるようになり、いよいよ退院が間近になってきた。 そして出血部の状態、レントゲン写真による診察の結果、3月11日、ついに退院。事故から1ヵ月が経っていた。
退院はしたものの、日常生活にも相当の不自由をきたすほどで、当面の間、週に1回の通院をしながらの自宅養療となった。1ヵ月にわたる入院生活ですっかり体力が落ちてしまったうえ、食欲減退により体重が激減、退院時には45kgにまで減っていた。まずは体力をつけるため、1日1回は外に出て松葉杖を使って歩き回るようにした。松葉杖の歩行は意外と体力を使う。まだ3月というのに、300mも歩くと汗が吹き出してくる。また、上腕や脇がかなり痛くなる。
3月16日、退院後はじめての通院。出血部がほぼふさがり、入浴許可がおりた。また、右脚への3分の1荷重が認められた。体重の3分の1まで荷重をかけてもよいということで、具体的には体重計に右足を乗せて体重の3分の1(15kg)を指すまで踏んでみる。ところがやってみると全然力が入らず、15kgまで押すのが精一杯という状態で、唖然とした。
これと同時に、松葉杖を使って、右足を接地しての歩行練習を開始した。接地時は、3分の1荷重を意識しながら行う。左足に体重を預けながら松葉杖をうまく使って、右足に体重がかかりすぎないよう注意して歩行する。これができるようになると松葉杖での歩行もずいぶん楽になり、1km位の距離は歩けるようになった。しかし1kmも歩くとふくらはぎがパンパンに張ってくる。
これに慣れてきたら、3分の2荷重(30kg)まで上げる。そして片松葉歩行(松葉杖1本で歩くこと)も試みた。片松葉歩行では、左足側に松葉杖を持ち、左足と松葉杖に体重を乗せ、骨折している右足にはなるべく荷重がかからないようにして歩行する。3日目にはすっかり慣れ、階段の上り下りもできるようになった。歩行距離もかなり伸びたし、片手が空くことで買い物などもできるようになった。
3月23日、再び通院。診察の結果、全荷重が認められた。全荷重ということは、松葉杖なしで歩いてもよいということだ。早速無補助歩行を試みるが、さすがにいきなりは難しい。主に片松葉歩行をし、時々松葉杖をとって数歩歩く、というのを繰り返した。1日1時間は歩行練習をしていたので、体力もだいぶ戻ってきて、体重も46kgまで回復した。4日目からは階段の上り下りもでき、1日中松葉杖なしでも歩行が可能となった。まだ完全には体重をかけられないものの、日に日に回復していくのがわかる。
無補助歩行ができるようになり、いよいよ本格的なリハビリに入った。スポーツクラブに通ってプールでの水中歩行、筋力トレーニングなども行った。しかし、レッグカールやレッグエクステンションといった運動はまだできない。筋力不足を痛感した。4月に入ると、リハビリのためにと通信販売で注文していたエアロバイクが届いた。負荷を軽めにしておけばペダルを漕げるので、右下腿にあまり負担をかけずに心肺機能と脚筋力の回復させることができる。とは言ってもこのころはランニングへの復帰を意識していたわけではなく、右脚が著しく細くなっていた(大腿部まわりが5cm以上)ので、それを元に戻すことと、運動不足の解消が目的だった。とにかく食欲がなくて満足に食事ができないという状態を脱したかった。
日常生活にほぼ不自由を感じなくなり、上司とも相談のうえ4月4日から職場に復帰することになった。結局2ヵ月弱もの間、営業日数にして34日間、仕事から離れていたことになる。幸い、当時は窓口係で、歩き回る仕事でなかったので仕事にはあまり支障はなかった。通勤は徒歩と電車で、家から駅まで、駅から職場まではそれぞれ500m位なので往復で2kmほど、電車に乗っている時間は2駅8分だったのでそれほど負担はなかった。ただ駅の階段の上り下りには少し苦労した。
平日はほぼ毎日、自宅でエアロバイクを30分漕ぎ、休日はスポーツクラブへ足を運び、プールトレーニングとウエイトトレーニングを行った。プールでは、水中歩行を約30分と、スイミングだが、最初は(脚に力が入らず)バタ足ができなかったので、ビート板を脚に挟んで腕かきだけ。しかし急速に回復し、1週間後にはバタ足もできるようになり、普通にクロールで泳げるようになった。4月中旬、調子に乗って試しにちょっと小走りしてみた。100mで脚が痛み、恐くてやめた。正式にランニングの許可が出るまでは絶対走らないと心に誓った。
4月19日、職場復帰後初めての診察。レントゲン写真を見ると、頸骨はまだ全然固まっていない。まだ埋め込んだ金具で支えている状態で、走ったら脚が痛むのは当然だ。腓骨の方は、くっつきかけているのがわかった。この頃になると、体重は47kgまで回復してきた。毎日リハビリに励んだおかげで食欲が回復したためだ。エアロバイクの負荷も当初に比べるとかなり上がってきた。
歩行も徐々にスムーズになってきて、通勤時の家から駅までの所要時間も短縮されていくのがわかった。しかし全く順調というわけではなく、時々骨折部が少し疼くようになった。そして5月初旬から中旬にかけ、骨折部が痛む日が続くようになった。5月24日に再び診察を受けたときに、骨折部がつながりはじめたために痛みが出たことがわかった。レントゲン写真を見ても、確かに骨折部がうっすらとつながってきているのが確認できた。
体重も48kgとほとんど元の体重に戻ってきた。しかし毎日エアロバイクに乗っているにもかかわらず、心肺機能はなかなか元に戻らない。当時心拍数は55回前後だったので、ベストの頃に比べると15〜20回位多い。脚の太さも相変わらず骨折した右脚の方が細いままだった。
そして更に1ヶ月が経ち、6月21日に通院。この日の診察でやっと軽いジョギングをしてもよいとの許可が下りた。まだ完全に接合したわけではないが、もう心配はないということで通院は不要となった。入院して最初に書いてもらった診断書には、全治3ヶ月と書いてあったが、この段階で事故から4ヶ月強。あとは数ヶ月後に金具を抜く手術をするだけだ。
早速、この日からジョグをしてみた。歩くのはもうほとんど違和感がなくなっていたのだが、走るとなるとまた全然違う。ジョグをしてみて、走るというのは、脚に相当負担がかかっているのだということを認識した。ほんの15分程度、わずか2km走っただけでふくらはぎがパンパンに張ってしまった。しかし、事故当時はもう再起不能と覚悟したことを考えると、自分の脚で走ることができるようになったのは非常に大きな出来事だった。
練習と言うほどではないが、歩くようなスピードでジョグができるようになり、しばらくは2〜3kmの距離を1キロ7分以上かけて走った。というよりそれ以上のスピードは脚がもたず、出せなかった。しかしこれでは運動量としては少ないので、今まで通りエアロバイクで補った。7月に入ると、脚が徐々に慣れてきたのか、距離は4〜6kmに、ペースも1km6分を切る程度では走れるようになってきた。
その頃、勤務先の方では定例異動の時期だったが、転勤の辞令が出た。入社5年目で、支店勤務の銀行員としては長い部類に入るので、珍しいことではないのだが、怪我のこともあり、まだ転勤はないだろうと心の中では思っていたので、ちょっとショッキングな発表だった。今度は本部勤務ということだが、逆に脚の具合に配慮してくれたのだろうか、と思ったりもした。
本部は今のところから通うのは大変(70km以上離れている)なので、社宅に入ることになった。銀行は転勤の発表があってから赴任日までの期間が短いと言われるが、赴任は約10日後の7月11日なので、大急ぎで引っ越しの準備をし、2日前に静岡市内の社宅に引っ越した。静岡市の中心部から2.5kmほど離れた住宅地で、金融機関など大企業の寮や社宅が多くあるところだ。
早速散歩がてら近くを歩いてみると、社宅からわずか100mのところに城北公園というかなり大きな公園があった。旧静岡大学の跡地というくらいだから広いわけで、面積6ha、周囲は1kmあり、公園内、外周ともに走ることができる。走るにはなかなかいい環境だった。また、1.5kmほど離れたところには駿府公園(駿府城跡地)もあり、ここは公園内も走れるし、お堀の周りは1.6km程のジョギングコースにもなっている。
転勤してしばらくは、まだ仕事もそれほどなく早く帰ることができたので、夜公園内や公園の周りを走ってみた。1周1kmの公園の外周は、距離もわかりやすく夜も比較的明るく、とても良いコースだった。同じようにジョギングしている人やウォーキングしている人も結構いる。何よりいいのは交通事故の心配がないことだった。もう普通に生活できるようになったとはいえ、自動車に対する恐怖心はまだ片隅に残っていた。だから、しばらくはこの公園以外では走らなかった。当然通勤ランなどやろうという気にはならなかった。
ランニング許可が下りてから約1ヶ月、急速な回復を見せていた。一度に走る距離は7km程度だが、ビルドアップ的に走ると最後は1km4分のペースまで上げられるようになった。しかし、こんなに早く回復したのがあまりにうれしく、調子に乗りすぎたか、膝の痛みが発生した。筋力が相当に落ちているのにスピードを出しすぎたので、脚が耐えられないのは当然だった。
その後は脚の調子をみながら、徐々に一度に走れる距離を伸ばし、2ヶ月経った頃には週3回程度、一度に12〜13kmのランニングも可能になった。ところが、わずか2ヶ月でここまで上げたのはさすがに無理だったか、この頃から腓骨付近が痛むようになった。痛みがなくまるまで3週間くらい要し、その後はせいぜい週1〜2回、走る距離も7km程度にとどめるようにした。ちょっと走りすぎるとすぐに腓骨や膝が痛くなるので、恐くてこれ以上は走れない。
それでも走れるようになるとやはり大会に出たくなる。ちょうど11月の清水日本平マラソンの募集があったので、申し込んでみることにした。種目は10kmと20kmがあったが、当然ながら20kmはとても走れないので、10kmに申し込んだ。10kmと言う距離も不安だが、もっと心配なのがこの大会は長い登り下りの坂があることだ。脚が耐えられるかどうかが非常に不安だった。脚を鍛えようにも、練習量を多くすればすぐに痛くなるのでそれはできない。
不安を抱えながら、11月23日、大会当日がやってきた。ここ2ヶ月はたまに気が向いたときにちょっと走るだけで、練習らしい練習はほとんどしていないので、とりあえず脚の痛みは完全に消えていた。今まではこういった市民マラソンでは最前列に並んでスタートしたが、今回は少し遠慮して並んだ。スタート後は、とにかくはやる気持ちを抑えてスピードを抑えた。
コースは4km位まで平坦で、その後約2km、高低差にして100mほど登った後同じ道を降りてくる。その後は平坦な道を走って清水市陸上競技場でゴールする。ペースを抑えているので、登りはさほどきつくない。むしろ脚への負担という点では下りの方がきつい。スピードが出過ぎないよう注意しながら坂を下り、なんとか脚を痛めずにゴールできた。
タイムは36分58秒で総合65位だったが、おそらく距離が短く、実質的には38分台と思われる。それでも、スピードを抑えながらもキロ4分を切るペースで走れ、故障も発生しなかったので、事故後初のレースとしては満足だった。
この頃になると、まだ金具は抜いていないが骨自体は完全につながっていたようで、痛みはほとんど発生しなくなった。練習ではキロ4分ペースで15〜16km位なら走れるようになった。しかしちょっと走りすぎるとまたすぐに痛くなる。これでは、ごまかしながら10kmなどのレースなら走れるものの、練習が満足にできないのではマラソンなどとても走れない。
12月〜1月にかけて駅伝を4度走ったが、いずれも満足のいく走りにはほど遠かった。 12月4日、中日島田駅伝は7.5kmを28分22秒。1月は島田駅伝で6.8kmを25分30秒、春野町駅伝は2.7kmを9分46秒、静岡県駅伝は強い追い風のなか、6.6kmを22分36秒といった具合だ。練習したくてもすぐに脚が痛くなり、十分な練習ができないのだから仕方がない。
2月に入り、そろそろ金具を抜こう(抜釘手術)と思い、一度病院に出向いた。レントゲンで骨が完全に接合しているのを確認し、手術の日程を決めた。すでに3月5日の駿府マラソン(5km)に申し込んでいたので、その翌日から休暇を取り、3日間の予定で入院することにした。
駿府マラソンの前は比較的よく練習ができた。2月は141kmと事故後では最高の走行距離を記録した。脚の中に金具が入っているからといっても、別に重たく感じるわけでもないし、特に違和感はない。体重は48.5kg前後、心拍数も45〜50回で安定してきた。まだこの頃は通勤ランをやっていなかったので、練習は帰宅後、1周1kmの公園外周を30分〜1時間走る。休日は調子の良いときは17kmをキロ3分45秒のペースで走れるようになっていた。駿府マラソンは5kmでは物足りないと感じるくらいだ。脚の痛みもなぜか出なくなった。
久しぶりに練習をまともにできたので、抜釘前の最後の記念となるレースは、久しぶりに気合いが入った。最初の1kmは余裕をもって入ったが、中盤から後半にかけてはかなり頑張って走り、呼吸が激しくなり、顔がゆがむ。3kmを10分20秒台で通過、事故後ではおそらく体験したことのないペースで走っている。ラストをひと踏ん張りし、17分24秒でゴール。密かに16分台を狙っていたが、さすがにそれは甘かった。しかし、事故当時のことを考えれば、ここまで回復したのだから不満は全くない。そしてレース後、翌日からの入院のため浜松へと向かった。
1995年3月6日、脚に埋め込まれた金具を抜くため、再び入院。手術は翌日のため、この日は簡単な検査と脚の剃毛をする以外は何もすることがない。病気でも怪我でもないのに入院しているというのは妙な気分だ。夜からは絶食で、退屈さに空腹が加わる。そして翌日、いよいよ抜釘手術だ。下半身に麻酔をかけるが、例によってなかなか麻酔が効いてこない。麻酔の量は体重で決めるようだが、マラソンランナーの場合体重の割に血液が多いので麻酔の量が相対的に少ないのだろうか。
麻酔が効いてくると、手術開始。なにやら工具のようなものでカンカンたたいたり、ねじったりして金具を引っこ抜いているようだ。日曜大工をやっているようでほとんど緊迫感がない。短時間で終わって縫合し、手術完了。抜き出した金具は、記念にもらった。意外と長く、重いのに驚いた。手術当日は麻酔が効いていて全く動けないのだが、本来は麻酔が切れれば歩けて翌日(3日め)には退院できるらしい。しかし、今回もまた出血が止まらず、退院はお預けとなった。
4日目にだいぶ出血が止まってきて、5日目にほぼ出血が止まり、退院できた。縫合部分が結構痛むので、歩けるとは言っても、まだかなり不自由だ。土・日と自宅で静養し、月曜日から出勤したものの、脚をだいぶ引きずっている状態。二度も同じ所を縫合したせいか、膝を曲げるときに皮膚が突っ張る感じがするのが気になる。1週間ほどしてジョグしようとしたが、とても走れる状態ではなく、1kmで中止。結局手術から16日後になってようやく軽く走れるようになった。とは言ってもキロ6分半〜7分で3キロほどだ。
実は手術の前に、4月16日に行われる小笠掛川マラソン(フル)に申し込んであった。今回の手術は金具を抜くだけだからすぐに走れるようになると思っていたのだが、全くの誤算だった。それでも走り初めてからは回復が早く、すぐにキロ5分〜5分半、10km程度のジョグはできるようになった。小笠掛川の前に4月2日の日本平桜マラソン(5km)に申し込んでいたのだが、これには何とか間に合った。17分59秒(距離は少し短いと思われる)とまずまずの回復具合だった。