中学1年〜走り始め

 走り始めたのは中学1年生の時。別に走るのが好きだったわけでも得意だったわけでもないのだが、仲の良い友達が陸上部に入ると言ったので、じゃあ自分も、という動機としてはどちらかと言うと不純だ。小学校の頃は体育はどちらかというと苦手な方で、競走も得意ではなかった。しかし、マラソン大会では100人中15番位で、体育が苦手だった割には健闘していた。だから中学の陸上部に入っても当然長距離を選んだ。

 陸上部の顧問は日体大卒でまだ20代の若い先生で、結構練習は厳しかった。しかしそのため知らないうちに力をつけていたようで、5月のスポーツテストでは1500mを5分24秒で走って、クラスでトップだった。学年でも13クラス・280人中なんと3番。すっかり自信をつけてしまった。

 夏から秋にかけても順調に伸びて1500mは5分02秒に。秋の浜松市内新人戦で初めて大会に出場することになった。種目は800m。いつもは学校の200mトラックで走っていたが、生まれて初めて400mトラックを走ることができた。コーナーが緩くてとても走りやすい。2分23秒台の自己新で走ったが、あと1人というところで予選通過はならなかった。「井の中の蛙」というのを痛感した。

 市の駅伝は候補選手の枠には入ったが、前年まで2連覇している強豪校であったのと、中学くらいだと1年生と3年生では相当な体力差があり、正選手にはなれなかった。1年生で正選手になったのは一人だけ。校内マラソン大会は学年別だったので、2位を確保。1位の生徒(M君としておく)は駅伝でも正選手、市内新人戦でも3位と実力的には断トツで、結局一度も勝てなかった。

中学2年 順風〜スランプ

 春休みには3000mの校内記録会を行い、10分07秒。当時、1年生の終わり頃のタイムとしてはまずまずだと思う。M君は10分05秒で、負けたものの相当に実力が接近した。しかし、2年生になって春に通信陸上の静岡県西部地区予選があるのだが、これが各校1名しか出られない。結局選手にはなれずじまい。さきほどのM君は4分24秒の好記録で全国大会への切符を手にした。またしても差をつけられてしまった。

 夏休み。今までは順風満帆だったのだが、ここで波乱が起こる。校内で3種競技の記録会をやっていたときのこと。3種競技は100mハードル、走高跳、砲丸投でそれぞれ記録ごとに得点に換算して総合点を競うものだ。この走高跳の試技のとき、踏切でバランスを崩し、支柱の方へ身体が流れた。脚が支柱にあたり、倒れてきた。ちょうどバーを置くための金具の部分が膝の裏あたりに直撃、「痛い」と思って脚の方を見ると、ものすごく出血している。すぐに先生が止血して、そのまま車で病院に直行。一針縫った程度の傷で治まったが、2週間ほど部活動は休むことになった。

 抜糸後しばらくして部活動には復帰するのだが、まだ思うように走れない。違和感なく走れるようになるまで、さらに1ヶ月位を要しただろうか。そのうちに急速に力を付けた同学年の子にも抜かれてしまった。脚の方は完全に治っているのだが、一向に調子が上がらない。1500mは辛うじて1年生の時の記録を上回る5分00秒で走ったが、3000mでは10分40秒もかかった。当然新人戦も駅伝も選手になれなかった。校内のマラソン大会ではなんと12位に落ちてしまう。陸上部以外の生徒にもあっさり負けてしまった。原因不明のスランプであった。

中学3年 中学校が分離

 中学校は1学年13クラスもあるマンモス校で、3年生になるときに分離し、新しい学校に行くことになった。今度は4クラスしかない。陸上部の顧問も専門の先生ではなく、前の学校のような厳しさはない。M君とも別れてしまった。そんなわけで練習には全然身が入らないものの、かえって調子はよくなっていた。強くない学校へ移ったため、通信陸上にも出場できた。800mで2分17秒。タイムは伸びてはいたが、3年生でこのタイムでは全然通用しない。2年生の時の大スランプが尾を引いている。

 夏の市内大会にも初めて出場。800mに出たが、1周目を61秒というオーバーペースで入ってしまい、600mで足が止まってしまった。結局2分19秒もかかって西部大会進出はならなかった。秋には1500mは4分49秒に伸ばしたものの、3000mは相変わらず不調で、10分30秒かかっていた。

 11月の市の駅伝でも3km区間を走って27校中25位とひどかった。1500mまでは何とか走れるものの、距離が長くなるとさっぱりだった。悔いは残るが、3年生はここで受験勉強のため引退となる。

高校1年 入部〜デビュー戦

 高校は第一志望の浜松北高に合格した。県下では有数の進学校であると同時にスポーツも盛んで文武両道の学校だった。中でも陸上部は、前年に100mでインターハイ優勝者を出し、棒高跳びでも3位に入るなど、陸上王国静岡県の中でも名門中の名門だった。中学時代の実績はさっぱりで、とてもそんな高校に入ってもついていけるわけがないと思い、陸上を続けるつもりはなかった。ところが、合格発表後まもなく、なんとその名門陸上部から誘いの手紙が届いたのだった。

 感激して悩むことなく説明会に行き、入部を決心した。M君も再び同じ高校になった。浜松北高には1978年の中学ランキング(3000m)1位という先輩がいるのは知っていたが、入部して驚いた。長距離ブロックはわずか4名しかいなかったのだ。これでは駅伝にも出られない。長距離部員は私を含めて4名入部した。だが、実績のあるのは中学の同級生、M君のみ。

 練習はしばらくはひたすらジョグのみ。受験でなまっているため、まず身体を作らなければいけない。しかし、右も左もわからないうちに、5月中旬のインターハイ静岡県西部地区予選にエントリーされてしまった。種目は1500m障害。長距離部員が少ないので、枠が空いてしまうからだ。練習らしい練習もせず、大会を迎えてしまった。

 予選がスタートし、1周目、障害を1台、2台・・・とまずは順調に越えていく。そんなに難しくないな、と思いながら最初の大障害(水濠)に向かう。ちょっと怖いな、と思い、障害に足をかけた瞬間、バランスを崩して水濠に落ちてしまった。体中、水に浸かってしまう。俗に「水濠で泳いだ」というやつだ。動揺してしまいその後は全然うまく走れない。最下位、5分15秒でやっとゴール。散々なデビュー戦だった。

重度の貧血〜回復

 6月頃、ひどく調子が悪い。練習してもどんどんタイムが遅くなっていく。3000mは12分近くかかるようになった。しまいには100mジョグしただけで脚が硬直して動かなくなる。階段を登るのもつらい。さすがに変だと思ったのか、先生に病院で血液検査をするよう命じられた。検査の結果、重度の貧血だった。血色素(ヘモグロビン)は8.7という極度に低い数値だった(男性は14〜16が標準)。道理で走れないわけだ。自分にとっては練習量が多すぎたようだ。思い起こすと、中学時代のスランプもたぶん貧血だったのだろう。

 すぐに増血剤による治療を開始した。治るまでは練習はジョグ、ウォークと補強のみ。1ヶ月ほどしてほぼ快復したので、練習を再開した。治療中はほとんど練習していないというのに、とても軽快に走れるので驚いた。2000mのトライアルをしたら、何と6分10秒で走ってしまった。その後も1500mで4分28秒、3000mで9分38秒、5000mは17分38秒と大幅自己新ラッシュ。貧血を克服するとこんなにも伸びるのか、というのを身をもって体験した。

再度貧血、低迷

 9月に入ってしばらくは好調を維持していたが、中旬に行われた新人戦(静岡県西部)では1500mで4分45秒もかかってしまった。翌日の1500m障害はやや調子を戻したものの、4分57秒。調子は下降していた。10月になると、またほとんど走れない状態になった。血液検査ではヘモグロビン値10.6。これもひどい貧血だった。今回は貧血だろうということは予想できたが、本当につかの間の「好調」だった。

 体内の鉄分には、「血中鉄」と「貯蔵鉄」がある。激しい運動をすると、血中鉄が消費(分解)されるため、骨の中などに蓄積されている貯蔵鉄が溶けだして血中鉄を補充する。この時は貧血の自覚症状は全くない。貯蔵鉄が枯渇すると、血中鉄が補充されなくなるので次第に欠乏して貧血症状が現れる。逆に、貧血の治療中は、増血剤を服用することでまず血中鉄が補われる。この段階で治ったと思って服用を中止すると、再び貧血になってしまう。今回の貧血は、まさにこのパターンであった。自覚症状がなくなってもしばらくは貯蔵鉄を補充するため、増血剤を服用し続けなければならなかったのだが、当時はそういう知識がなかった。

 慌てて増血剤の服用を開始するが、10月下旬の5000mのレースでは19分23秒、11月上旬の県高校駅伝では6区5kmを走ったものの、向かい風ということもあるが20分18秒かけてしまった。区間順位は33校中、30位。全くいいところがなかった。チーム自体も1区Tさん(3年生で中学時代3000m全国ランキング1位)が受験勉強中にもかかわらず12位にまとめたものの、私が13位でたすきをもらい、大ブレーキで16位に後退、さらに7区の1年生も大ブレーキで20位に沈んだ。総合タイムは2時間30分51秒。

 その後一旦快方に向かったものの、なかなか浮上できず、1月上旬の磐田ロードレース10kmでは39分43秒、その1週間後の西部ロードレース10kmでも38分39秒と、まだまだ本調子にはほど遠い。もうこのまま快復せずに終わってしまうのではないか、と不安になる。

高1〜高2 快進撃

 2月上旬、静岡県西部駅伝(5区間25km)が行われた。駅伝は序盤から遅れると連鎖反応で次々とブレーキを起こすことはよくある。そのため、速い順にオーダーを組んだ。調子のさえないわたしは当然のように最終区5.8kmに起用された。貧血の方は幾分回復しているであろうが、走ってみないとわからない状態。スタートしてみると、意外と調子がよい。序盤は抑えていって後半尻上がりに調子が上がってくる展開。タイムは19分51秒。5kmを17分そこそこで通過するペース、自己記録を大幅に上回るペース ある。ついに4ヶ月にも及ぶ長いスランプから脱することができた。

 その後も快進撃が続く。2月中旬に浜名湖ロードレース10kmに出場、何と34分26秒で走ってしまう。中学校からの目標であるM君も抑えた。数日後、校内の長距離大会では9.5kmを33分01秒で全校2位。1位はインターハイにも出場している3年の先輩で、普通は3年生は出ないので、実質校内No.1、もちろん学年トップだ。

 3月には練習で5000m16分56秒でついに16分台を出す。実はこの時は6000mの途中通過タイムである。4月に入り、初旬に静岡県西部選手権。午前中に1500mに出て4分27秒8、スローペースだったのでタイムは良くないが一応自己新。午後の5000mでは16分23秒6と大幅な自己新。つい最近までは16分台が目標だったのに、いきなり15分台が視界に入ってきた。その2週間後、記録会で1500m4分20秒2の大幅自己新、5000mでも16分19秒と記録を伸ばした。

 勢いはまだまだ止まらない。5月のインターハイ静岡県西部地区予選。初日の1500mは予選でいいペースで引っ張られ、何と4分12秒8。信じられない記録が出てしまった。さすがに予選で力を使い果たしたのか、2時間後の決勝までには回復せず、決勝は4分20秒で16位。県大会に進める10位までには入れなかった。しかし、予選を通過したというのは初めてのことでとてもうれしかった。翌日の1500m障害は、前日のようにはうまくいかず、4分42秒で予選落ち。さすがに疲労が抜けていなかった。

伸び悩み対策

 県大会進出はならなかったので、インターハイはこれで終わり。当面は大会もなく、秋のシーズンを目指すことになる。西部予選後も比較的好調を維持し、7月に静岡県選手権5000mに出場。15分台を狙っていった。2000を6分10秒で通過したまではよかったが、ちょっとオーバーペースだったか、失速して結局16分56秒もかかってしまった。実力を過信していたようだ。

 ここで、このまま秋のシーズンを迎えても伸び悩むだろうと考え、その後冬期練習並の走り込みを行った。朝・昼・夕と1日3回練習したこともあった。浜松〜豊橋(40km以上)間を3時間で走るという、当時の高校生としてはかなりきつい練習をしたりして、意図的に貧血状態に追い込んだ。多少リスクはあるものの、過去2回の経験から確実に強くなる方法だと考えた。1ヶ月の走行距離は500kmに達し、思惑通り貧血になった。ヘモグロビン値は12台で貧血は軽いものだったが、ここから増血剤を投与開始した。

 しかし、予定外だったのは復調が思ったより遅かったことだ。おそらく貧血は割と早い段階で回復したであろうが、相当の走り込みをしたために、疲労が抜けていなかったのだろう。過去2回の貧血では、重度の貧血だったために軽い練習しかできず、肉体的には疲労していなかった。しかし、今回は貧血状態のままかなりきつい練習をしていたために、身体の疲労も相当なものだったに違いない。

 8月20日頃の浜松市内新人戦では1500mに出場したものの4分28秒で入賞もできず、下旬のジュニアオリンピック県予選では800mで2分07秒。800mは高校入学後初レースだったが、好調時なら2分03秒前後は出ているだろう。9月の静岡県西部新人戦にははたして間に合うのだろうか?

貧血治るも、初めて故障

 9月にはいると、どうやら貧血もほぼ完治。中旬にある西部新人戦を目標に置く。この大会は、本命はもちろん1500mだが、その他5000mと3000m障害に出場する。2日間で3種目5本のハードスケジュールとなる。次年度から1500m障害は廃止され、3000m障害に移行するため、それに先立って今回から3000m障害が行われる。

 貧血も治って調子はかなり上向きだったのだが、直前になって膝に違和感を覚える。高校入学以来、故障らしい故障をしたことがなく、脚に不安を感じたのは初めてのことだった。欠場すれば県大会への道も閉ざされることになるので、どうしても出場したかった。そのため膝の故障は隠し続けた。結局快方に向かわぬまま当日を迎えてしまった。

 初日は1500mの予選と決勝。スタートしてみると、膝の方は大丈夫そうだ。先頭集団に楽についていき、最後は軽く流して3位、4分15秒0で予選通過。決勝は約2時間後と間隔は短いが、ラストを流したのでそれほど疲労感はない。幸い膝はあまり痛まないが、大事をとって集団の後方で自分の順位を確認しながら走る。10位までが県大会進出となる。無理をすれば6位入賞できたかもしれないが、ここは膝の不安もあるので10位でゴール。タイムは4分16秒5だった。

 初日はこれで終了。2日目はまず3000m障害予選。1500mは何とか走れたが、問題は3000m障害だ。何しろ障害を飛び越した時の着地の衝撃はフラットレースの比ではない。前日の1500mではさほど気にならなかった膝が、障害を1台越えるごとに痛みを増してくる。このレースもなるべく膝に負担をかけないよう、順位を確かめながら予選通過ラインすれすれで通った。タイムは10分26秒。

 決勝はアップの時からすでに膝が痛い。そこでやむを得ず障害の跳び方を変えることにした。通常、障害はハードルのように飛び越えるのが基本だが、決勝では膝の負担を減らすため、障害の上に乗って跳び越えることにした。しかしロスが大きいのは否めず、11〜12番手から上がれない。ラスト1周になって、これでは追いつかないと考え、この1周だけは痛みを我慢してハードルのように跳び越えることにした。10位との差はかなりあったのだが、ぐんぐん詰まっていく。しかし、あと一歩のところで及ばず11位。タイムは予選よりは上がって10分19秒だった。

 5000mは3000障害決勝のわずか1時間後で、膝も痛いため、5000mは棄権したいと先生に申し出た。ところが、練習のつもりで走ってこいと言われてしまった。膝の故障は隠していたので、今更膝が痛いなどと言えず、結局5000も走ることになった。さすがに3000障害を2本走って1時間後では回復しない。アップもせずにスタート地点に向かった。こんな状態の割に意外とよく走れて16分38秒でカバーした。15位くらいでこれも西部地区止まりとなったため、県新人戦は1500mのみの出場が決定した。

初の4分ヒトケタ

 県新人戦は約1ヶ月後。西部新人戦でかなり無理をしたはずなのに、膝の痛みは不思議なことに治ってしまった。今回は1500mの1種目のみということで、練習内容もスプリント的なものを多くし、スピードを養成した。

 地区予選は西部・中部・東部の3ヶ所で行い、各10名が県大会に進出できるので、30名の出場となる。予選は2組6着、つまり15人ずつ2組に分かれ、それぞれ上位6名が決勝に進出できる。わたしは西部10位なので、順当に行けば予選で最下位争いをするはずだが、残り300mで9位前後。6位とはちょっと離れてしまった、と諦めかけたがスピード練習の効果があったのか、最後の直線で6位まで上がり、決勝進出。タイムは4分09秒5の自己新。初めての4分ヒトケタだった。

 決勝は約2時間後と間隔が短い。予選でかなり力を使ったので決勝は体が冴えず、消極的なレース運びとなった。1000m手前で集団の後方に位置していたが、ここで一人突然スパートをかける。まさかこんなに早くスパートするとは思わず、全く対応できなかった。最後尾(12位)に落ちてしまう。その後ペースを上げるも10位に上がるのが精一杯。4分13秒8の10位に沈んだ。

県高校駅伝 花の1区

 県高校駅伝は県新人戦の4週間後と期間が短いが、長距離の練習に切り替える。2週間後の5000mのレースでは16分09秒5の自己新を出し、更に駅伝の4日前に行った5000mタイムトライアルでは16分01秒に伸ばした。

 駅伝は花の1区、10kmを走る。我が校は進学校で3年生は受験勉強に入っているので、通常は出ることはない。前年も3年生のTさん(前述)は本番1ヶ月前だけ練習して出場したものの、Nさんは5000m15分40秒の記録を持ちながら出場していない。2年生以下の長距離部員は当時5名しかいなかったので、出場自体が危ぶまれたが、推薦入学の決まっていた3年生2名が出場してくれることになり、なんとか7人揃えた。3年生はSさんとAさんで、400mの選手。Sさんは400mでインターハイ3位、国体優勝という経歴を持つ。中学時代長距離もやっていたということで、3km区間ならそこそこ走れるので、2区を走ることになった。また、Aさんはもともと長距離をやっていて、高2までは800mの選手。前年5区で区間2位の実績を持ち、3km区間なら申し分ない。

 駅伝のコースは浜松から遠州灘沿いに東へ向かい、折り返して戻ってくる。晴れると西風が非常に強く、1区はかなり速いタイムが出るのだが、当日は雨が降り出しそうな曇り空。風は弱いがやや向かい風となった。10kmは久しぶりなので、自重気味にスタートする。2kmですでにトップと100mは差がついている。7kmあたりまでは割と楽に走れたのだが、その後ペースが上がらず、区間14位に終わった。エース区間だから順位はやむを得ないとして、34分02秒かかったのは少々不満だ。

 2区を走ったSさんが12位に上げ、その後多少の出入りはあるが、12位をキープして2時間24分44秒でアンカーがゴールした。急造チームとしてはまずまず健闘したのではないかと思う。

走り込んだ高2の冬

 秋に5000m16分を切れず、もう一段のレベルアップが必要と考えた。それまで月間450km程度だった練習量を500〜600kmに増やすとともに、今まであまりやっていなかった補強も取り入れた。補強といってもベンチプレスやスクワットというようなものではなく、バウンディングやハードルを使ったジャンプ系のトレーニング、砂浜でのダッシュなど、時々短距離や跳躍選手に混じってやったりした。

 その結果、一時的に練習タイムも落ちたが、これは疲労性のものとわかっていたし、レースしばらくないので、あまり気にかけなかった。1月中旬頃、風邪をこじらせてしまったが、それ以外は順調に練習を消化した。2月初めの森町ロードレース10kmでは、35分05秒。全く調整なしで疲労がピークに達していた頃だ。これだけハードな練習をしても貧血にはならなかった。体力がついてきた証拠だ。2月中旬の浜名湖ロードレースでは、10kmで初めて33分台となる33分32秒と調子が上がってきた。校内の長距離大会でも9.5kmを31分52秒と昨年と同コースで1分09秒短縮している。もちろん全校1位。

 冬期練習の締めくくりとして焼津ロードレース20kmに出場した。10kmを超えるレースは初めて。秋の頃と違って、スタミナは十分に自信がついていた。前半やや追い風ながら5kmを16分15秒、10kmを33分15秒とかなりいいペースで通過。後半向かい風もありややペースダウンしたが、1時間08分38秒の好記録で一般選手に混じって9位に入った。

初の15分台

 20kmをまずまずのタイムで走れたし、練習でもしっかり走れていたので、すでに5000mの15分台は時間の問題と感じていた。3月も半ばを過ぎ、トラックシーズンに向けてスピード練習への切り替えをしていた頃、練習で6000mのペース走を行った。ハイペースで入って後半なるべくペースを落とさないように走るペース設定。

 1000mを3分00秒、2000mを6分07秒の本番並のペースで入る。さすがにこのペースは維持できず、3000mを9分22秒、4000m12分42秒とじりじりペースを落としながら通過。ここで、「15分台が出る!」と思い、6000mのところを急遽5000mに切り替えてスパート。ラスト1000を3分13秒に戻し、15分55秒が出た。公認記録でないとはいえ、ついに高校入学からの夢であった15分台を達成した瞬間だった。

高3 好調の春先

 4月に入ると3日間の短期合宿。初日は27kmのロング走、2日目は1500m×5のレペティション。40分毎にスタートする。4分23秒〜29秒の間にまとめ、いい感触を得ていた。最終日はちょうど西部選手権があり、1500mと5000mに出場。前日の疲労が抜けていない中、まず1500mは後半独走で4分12秒4。まだスピード練習が十分でないシーズン初めとしてはまずまずのタイムだ。

 6時間ほど間隔をおいてゆっくり休んだ後、5000m。合宿最終日でしかも午前中1500mを走った後というのに、あまり倦怠感がない。1000mを3分00秒と予定通りのペースで入り、2000mを6分09秒、3000mを9分19秒で通過。昨秋までならここでつぶれているペースだが、スピードは落ちない。4000mは12分28秒。最後は疲労の影響か、今ひとつペースが上がらなかったが、15分39秒0の大幅自己新をマークした。

 2週間後の県記録会でも同様に1500mと5000mに出場。この日はなんとなく体がだるいと感じており、1500mで4分10秒8。4分06秒〜07秒では走りたかったがペースに恵まれず、ちょっと不満。5000mは2分55秒−6分04秒−9分14秒−12分27秒のラップを刻み、15分33秒9でまたも自己記録を更新した。3週間後のインターハイ静岡西部予選が楽しみになってきた。エントリーは1500mと5000m。フラット種目だけで十分東海大会までは行けると思い、3000m障害はエントリーしなかった。

悪夢

 5月に入り、インターハイ静岡西部予選が始まる。春先からの調子は維持しており、目標は県大会進出ではなく、チームの得点源として上位入賞を果たすことだ。タイム的には1500mは4分05秒、5000mは15分25秒あたりが目標となる。

 まず初日は1500m。予選は4組4着。ペースは遅くないが、とても楽についていける。調子はかなり良さそうだ。1200mを通過して残り300m。磐田農、浜松工の3年生は実力者で順当に残っている。他には浜松日体高の1年生、中学時代800mで1分58秒台で走っているが、入学直後のレースでよくついてきている。それから、気賀高の800mの選手、私を含め計5人。4着取りだから一人落ちることになる。

 バックストレートで気賀高の選手が離れる。これで4人確定か。そのまま4人の集団で残り100m。ところが、「死んだはず」の5番手の選手が突然アウトコースから来たのに気づくのが遅かった。「まずい、相手は800mの選手だ」と思ったが、突然の出来事にスピードの切り替えができない。

 日体高の1年生も800mの選手でスピードがある。なかなか追いつけないうちにどんどんゴールが近づいてくる。5選手とも必死だ。そしてゴールに5人がなだれ込んだ。最後は短距離ばりに体を前傾させてフィニッシュ。しかし、わずかに及ばなかった。1位は4分08秒5、4位は4分08秒8、そして私は4分08秒9。自己新だがそんなことはどうでもよかった。信じられない予選落ちだった。

 結局4組中、4分10秒を切ったのはこの組だけ。つまり予選全体で5位のタイムながら、組で5位だったために予選通過ならなかったのだ。他の組は4分15秒位でも楽々予選通過している。心のどこかに「予選は流して楽しよう」というすきがほんの少しあったのは否定できないが、組み合わせが悪かったとしか言いようがない。呆然とトラックを離れ、チームメイトだけでなく他校の選手からも同情の言葉をかけられたが、全く耳に入らない。翌日の5000mにすべてをかけるしかない。

 翌日、朝から異常に暑い1日となった。アップをしていても暑さで動きがピリッとしない。5000mは一発決勝で、10位以内に入れば県大会に進出だが、前日の汚名を晴らすには少なくとも3位以内を、と思っていた。スタートは暑さの割に結構ハイペースで、1000mを2分55秒で通過。3番手あたりにつける。しかし、いつもなら2分55秒でも苦もなくついていけるのに、この日はかなりきつい。1000mを通過した後、じりじりと後退していく。

 2000mを過ぎて、これは完全に体がおかしいと思った。自意識過剰で、冷静に体調を判断する能力を欠いていたのだ。どんどん順位を落とし、気づいた頃には15位前後まで後退していた。やっと我に返って追走するが、すでに残り1000mを切っている。10位とは20秒くらいの差だが、これが縮まらず、16分30秒もかかってゴール。これでインターハイはすべて終わってしまった。あまりにもあっけない幕切れだった。

 ゴール後、吐き気がしてもどしてしまう。前日の信じられない予選落ちに相当苛立っていたのと、暑さで内臓がやられたようだ。神経性のものも多分にあるだろう。全く予定外の出来事に放心状態となった。こんなことなら3000m障害にもエントリーしておくんだった、と後で思っても後の祭りだった。

巡ってきた幸運

 まだ5月というのに、私自身の高校陸上は終わってしまった。進学校である我が校では、自分の競技が終わった時点で引退し、受験勉強に専念することになっている。私もその例外ではなく、翌日から競技はやめ、勉強に専念した。ただ、突然運動をやめると体によくないと思い、朝練習(30分くらいのジョグ)だけはしばらく続けた。

 関西方面の某国立大の工学系学部を第一志望においた。今まで定期テスト前の一夜漬けの勉強しかしてこなかったので、本気で勉強したら結構成績は伸びた。陸上競技で培った集中力は伊達ではなかったようだ。「部活のない生活」にも慣れてきて、7月頃になると朝練もしなくなった。夏休みは学校でやる補修に参加したり、図書館に通ったりして集中力を保つとともに、図書館で勉強していた数人の友人と、毎朝6時半頃から近くの中学校でテニスなどをやったりして、規律正しい生活と体力の維持を心がけた。

 2学期に入り、10月にさしかかる頃、学校の教室に大学推薦入学の募集要項が掲示されているのに気がついた。推薦入学は私立なので、もちろん第一志望の学校はないのだが、この中に慶應大学理工学部があるのを見つけた。慶應大学といえば、かなり学力レベルが高いのだが、陸上の方も歴史ある伝統校で「陸の王者」と呼ばれ、当時も関東インカレ一部校にいる学校。高2の時一緒に駅伝を走ったS先輩とA先輩も入っている。

 国立大も捨てがたいが、慶應もいい学校だし、なんと言っても陸上が結構強い学校だ。推薦入学はかなり評点がよくないと入れないのだが、選ばれたら儲けものというつもりでで応募してみた。学校推薦という制度で、学内で選考されれば、まず無条件で大学は受け入れる。そのかわり学校毎に推薦枠が決められている。慶應理工は2名の狭き門だったが、インターハイでの不運の見返りなのか、幸運が巡ってきて、その1名に選考されてしまった。一応評点の最低基準は満たしていたものの、信じられなかった。自分より成績のよい生徒がたまたま応募しなかったようだ。

三度目の高校駅伝

 学内で選考が決定したのが10月上旬。11月上旬の高校駅伝県予選までは1ヶ月あるので、すぐに練習を再開すれば何とか間に合う。早速練習に復帰する。さすがに5月から5ヶ月間もの間、まともに練習していないのですっかり衰えていた。しかし意外と早く感覚が戻り、2週間もすると3000mを9分28秒で走れるまでに回復。15分台で走る後輩たちにも練習でそれほど遅れないようになった。

 駅伝のオーダーが決定。1区は1年生S1。1年生ながら5000mを15分48秒で走る。2区も1年生のS2。3000m障害は9分51秒で県新人戦で入賞している。3区は2年生のN。15分52秒だが、このところ急速に力を付けていて、実力はそれ以上と見られる。4区は1年生のK。3000mは9分10秒台でロードに強い。5区も1年生、800mの選手でスピードがある。5000mの持ちタイムは私が一番上だが、ブランクもあるので6区に回った。7区は2年生のAで、5000mは16分27秒のタイムを持つ。初めて中長距離だけでオーダーが組めただけでなく、1・2年生主体のチームとしてはなかなかレベルは高い。

 目標は7年前に出された2時間22分台の学校記録更新、そしてあわよくば6位入賞して東海大会に進出することだ。1区は14位とやや出遅れたが、1年生で初の10キロであることと、タイムが33分そこそこで、それほど遅れずに来ていることからまずまずの出だし。2区では2つ順位を上げる。3区は絶好調の2年N。区間3位の会心の走りで8位に浮上し、6位入賞が視界に入ってくる。4区、5区はともに1年生だが、堅実な走りで8位をキープ、6区につなぐ。

 6区の私はたすきを受けて前方を見ると、まったく先行する走者が見えない。後方は優勝争いに食い込んでもおかしくない浜松工が中盤遅れて9位、更に前半ブレーキで出遅れた強豪浜松商が10位につけているようだ。3km付近で後方を確認すると、浜松工が50m後ろまで迫っている。前半は抑えて走っていたが、ここでペースアップする。するとしばらくして7位の榛原高が見えてくる。後方から走りを見る限り、それほど強い選手ではなさそうだ。

 目標ができてさらにペースが上がる。間もなく追いついて一気に引き離す、7位に浮上した。東海大会まであと一つ順位を上げたいが、その先は全く見えない。後ろから迫ってきた浜松工も後半引き離してそのまま7位でアンカーにつなぐ。16分33秒で区間8位、若干の向かい風を考えるとまずまずのタイムだ。

 7区の2年生は今大会あまり調子がよくないため少々ブレーキ気味。17分半近くかかって浜松工、浜松商、榛原高の3校にかわされてしまい、結局終わってみれば10位。それでも長距離部員が少なく駅伝は弱いとされていた学校が一時7位まで上がる健闘を見せ、他校を驚かせた。一方、総合タイムは2時間20分00秒で学校記録はなんとか更新できた。

初マラソン

 駅伝が終わって、今までは来シーズンに向けて冬期練習に励むところだが、3年生ということで特に目標もないし、一度は現役引退した身なので、練習は気楽にやっていた。そんな時、顧問のK先生(故人)は、卒業する前に一度フルマラソンを走ってみろと私に言った。それまでマラソンを走ろうなどと思ったこともないし、フルマラソンと急に言われてもなんだか漠然としていて、「はい」と返事するしかなかった。

 それからどの大会に出場するか、検討を始めた。年内の大会はすでに申し込みを締め切っている。当時はまだ今ほどマラソン人口は多くなく、大会自体も非常に少なかった。また年齢制限で高校生不可の大会もある。消去法で、2月11日に茨城県で開催される「勝田全国マラソン」へ申し込むことにした。

 マラソンといっても全然イメージが沸かず、普段の長距離の延長くらいにしか思わなかった。練習は通常通りで、時々ロードで長い距離を走る程度。高2の夏に浜松〜豊橋間の約42キロを3時間で走ったことがあるので、それほど怖いという感覚はなかった。それより、5ヶ月間のブランクを取り戻すことの方が大事だった。

 1月に入ってすぐ、磐田ロードレース10kmに出場した。33分11秒で走り、駅伝の頃に比べると、走力はかなり戻ってきた。その後、練習で25km走、35km走を1回ずつ行った。マラソン練習としては全然物足りないが、高校生は普通こんな練習はしないので、これだけ走れれば十分だろうと思った。

 そして、前日の2月10日、宿泊場所の茨城県大洗に向かった。一人で遠征するのはちょっと不安だったので、同じく推薦入学の同級生Y君に付き添ってもらった。当時はカーボローディングなどという知識はなかったし、そもそも高校生の走る距離の範囲では、そんな必要もない。食事は普段通りで、夕食も、当日の朝食も旅館で出されたものは全部食べた。朝食はトラックレースと同じくレースの4時間前。その後は一切食べていない。朝食後、勝田市に向かった。

 受付を済ませ、アップ開始。アップも普段のレースと全く同じで1時間みっちりと行った。さすがに茨城は静岡と比べると寒く、むしろ入念に体を温めた。そしていよいよスタート。マラソンはまだまだマイナーで今ほど参加人数は多くないとはいえ、ざっと2千人ほどはいるだろうか。こんなにスタートで混雑するとは思わず、ゆっくりとスタート地点に向かったため、あまり前の方に行けなかった。スタートのロスタイムが数十秒あったと思う。また、スタートしてからもしばらくは混雑で自分のペースで走れない。

 2〜3キロ走ると混雑はなくなってきて快調に走り始める。5kmの通過は18分半位。その後も5km18分そこそこのイーブンペースで進み、20kmの通過が1時間12分30秒。中間点は1時間16分30秒。全然疲労感はなく、呼吸も乱れていない。「もう中間点か、マラソンって楽だな」と思った。5km18分のペースは、普段の5kmや10kmのレースに比べるとずいぶんスピードに余裕があるためだ。「このペースで2時間33分だから、後半ペースを上げれば31〜32分では行ける。」と計算する。

 25kmは1時間30分30秒前後で通過。まだイーブンペースを保っている。しかし、まだ全然疲れていないと思っていたのに、25km通過後、突然脚が重たくなる。どうなったのか最初はよくわからなかった。みるみるうちにスピードダウンしてやがてジョグ並のペースに落ちる。これがマラソンの俗に言う「○○キロの壁」か、と気がついたときには遅かった。朝食を終えてからすでに6時間近く経過している。トラックレースなら空腹でも走れるだろうが、マラソンではそうはいかなかった。のどが乾いていなかったので給水をほとんど摂らなかったのも失敗だった。

 エネルギー切れに加え、足の裏にできたマメがだんだん痛みを増してくる。おそらく血マメになっているだろう。30kmは1時間51分半前後と、この5kmは21分近くかかっている。しかしその後更にペースは落ちていく。次の5kmは25分、その次の5kmは27分で、上り坂などは完全に歩いてしまった。最後の2.195kmも11分かかり、ヨレヨレの状態でようやくゴール。タイムは2時間54分30秒。当時はサブスリーという言葉も一般的でなかったし、2時間30分台では走れると思っていたので、特に3時間を切ったという感慨はなかった。「やっと終わった」という気持ちと「もう2度と走りたくない」という気持ちが入り交じっていた。

 シューズを脱いで足の裏を見ると、足の裏全体が水膨れで、中は血の色で真っ赤になっている。まともに足をついて歩けない状態だった。シューズも10kmのレースで使うのと同じで、非常に底の薄いものだった。食事、ウォーミングアップ、シューズのいずれも普通のロードレースと同じでは走りきれるはずがない。マラソンを甘く見すぎてペース配分を誤ったのと、マラソンの知識がなかったのが「敗因」だった。

高校時代の練習

 高校での競技は以上で終わりとなるが、ここで高校時代の練習を紹介する。

 浜松北高陸上部は当時週休2日の練習システム。月曜日は完全休養、金曜日は活動休養と言い、基本的には早朝練習のみの日。その他の日は早朝練習とメイン練習を行う。練習は各種目にわかれたブロック毎に生徒がメニューを作り、それを監督が見て多少調整するもので、生徒の自主性を重んじた校風そのままである。

 2年生からは長距離ブロック長として練習メニューを考えた。まず1年を目標の大会に合わせていくつかに区切り、「導入期〜鍛錬期〜調整期〜レース〜休養期」という流れを作るのが基本となる。11月にシーズンが終わると一旦休養した後、冬期練習に入る。走り込みを主眼におき、筋力トレーニングを並行して行う。3月は「移行期」であり、4月のトラックシーズンに向けて練習をスピード主体に切り替えていく。

 大きな流れが決まったら、1〜2ヶ月の練習メニューをつくる。重要な大会がある時は、そこにピークを持っていくために大会から逆算して練習計画を策定する。この中の「鍛錬期」については、大体次のような練習パターンになっている。

月)完全休養

火)朝練、持続走(野外でのジョグ80分程度)

水)朝練、ショートインターバル200×30 400×15など

木)朝練、ロード16km〜20km

金)朝練

土)朝練、ロングインターバル1000×7〜10など

日)朝練、変則インターバル・レペティション・ペース走・クロカン・坂道・砂浜など

注)
朝練はジョグ20〜30分、バウンディング、鉄棒など
補強は週2回位。懸垂逆上がり、腹筋・背筋、足首の上げ下げ、ハードルを使ったジャンプ、レッグエクステンションなど。

練習場所は、ショートインターバルは学校で行うこともあるが、たいてい浜松市営の陸上競技場(400mの全天候トラック)で行う。ロードはアップダウンの厳しいコース、野外走はなるべく芝生などの上を走る。

この練習の場合、月間走行距離は450〜500km程度となる。当時の高校生の練習としては質・量ともに高く、しっかり身体のケアをしないと故障する(私の場合は故障はほとんどしなかったが、貧血になった)。しかし、この練習を続ければ確実に強くなる。